前回に引き続き今回もちょいとずるをして、以前書いたものを再利用する。
昼食も終え、活力を取り戻した後、向かった先は和爾下神社である。在原寺からは、上街道を5分ほど北上したところで龍田道を東に折れる。その突き当りが和爾下神社である。
鳥居を抜けてすぐ北側に下の様な石碑。
書いてある文字を判読すれば
刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 桧橋従来許武 狐尓安牟佐武
右一首傳云 一時衆會宴飲也 於是夜漏三更所聞狐聲 尓乃衆諸誘奥麿日 関此饌具雜器狐聲河橋等物但作哥者 即應聲作此歌也
とある。万葉集巻十六・3824歌、並びにその左注である。訓読するると次のようになる。
さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ
右の一首傳へて云はく 一時に衆會りて宴飲す ここに夜漏三更にして狐の聲聞こゆ すなはち衆諸奥麿に誘めて曰く この饌具、雜器、狐聲、河橋等の物に関けてただ哥を作れ といへば、即ち聲に應へて歌を作る といふ。
作者は長忌寸意吉麿(左注には「奥麿」)。短歌の方を口語訳すれば
さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津の桧橋から、「来む来む(コンコン)」と鳴きながらやって来る狐めに浴びせかけてやるのだ。
となろうか。 少々おふざけをしながら、詠んでいるのは分かるが、このままでは何が面白いのかわからない。ここは左注の助けを借りる必要がありそうだ。
ある日のこと・・・大勢が集まって酒宴を開いていた。時は深夜(夜漏三更)におよび、一同の酔いもまわって、座もかなり乱れてきた。そんな時である・・・いずこからか狐の鳴き声が聞こえてきた。歌上手として周囲から知られていた長忌寸意吉麿を周囲はそそのかす。「今目の前にある饌具・雜器・狐聲・河橋などの品々を詠みこんで一首を為せ。」と。狐の鳴き声だけならともかく、これだけのものすべてとなるとちょいと難題だ。けれども意吉麿は苦も無く一首を読み上げた。
それがこの一首である。与えられた課題、「饌具」は「さし鍋」、「雜器」は「櫃(櫟津イチヒツ)」、「狐聲=来む(コン)」、「河橋=桧橋」とすべてクリアされている。 一首の目的は与えられた課題をこなすこと、しかも周囲はだいぶ酔っている。真面目くさった歌よりも、ナンセンス(最近、この言葉・・・あんまり聞かないなあ)な方が受けはいいであろう。
これは今だってそうだ。もしみなさんがとある宴会に参加したとする。1次会も終わり、2次会3次会とみんなは大盛り上がりだ。カラオケもみんなノリノリで、酔いは最高潮である。そんな時にラブバラードなんかを朗々と歌い上げるやつがいたら・・・と考えれば、この一首は、場の空気を充分に読んだ意吉麿の絶妙の一首であったのだと言えよう。
・・・と、ここいら辺りまでの読みならば、まあだいたいのところは私も理解できていたが・・・ここからの話は当日の解説を聞いて初めて知り得たことである。
それは・・・なぜこの歌碑がここにあるか・・・ということである。結論を簡単に言えば「この歌碑がある場所が櫟津だから。」と言うことになる。
たとえごろ合わせのためとはいえ、この「櫟津」が架空の地名であっては面白みが半減する。ここは是非とも実在の地名でなければならない。そこで続日本紀をひもとくと神亀元年(724)に「少領正八位下大伴櫟津連子人。」とある。古代、一族の名はその居住地に由来することが多いことから、この「大伴櫟津連子人」の「櫟津」と推定することが出来る…中略…
「櫟津」の「櫟」は櫟本の「櫟」、「津」は「船着き場」。高瀬川を遡ってきた船が上つ道と交差するあたりに停泊する場所があったとしても何の不思議はない。しかも櫟本の「櫟」は「市」である。そして・・・そこには多くの人々が行き来する場所であったがゆえに、立派な橋が架けられている。それが「桧橋」である。 と考えると、そんな立派な橋から人間ならぬ狐のヤツめが堂々とやってくるのでけしからん、お湯をぶっかけて懲らしめてやろう・・・となって、一首の意はますますわかりやすくなる。 なお、この辺りに橋があったであろうことは日本書紀の武烈天皇即位前紀に
石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ ものきわに 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あはれ
と詠まれる中の「高橋」と言う語がその証左になる。この高橋は歌中の順番に従えば、布留と大宅の間に位置することになるが、現在地図で見るに、布留と大宅の間にはこの櫟本が入る。くわえて、この高橋と言う語であるが、この和邇下神社の南に接して流れる高瀬川の別名が高橋川であるとの考えも示されている。水際から、地面までの高低差が大きければ、それが高瀬・・・そして水際から地面までの高低差が大きければ、当然そこにかけられる橋も高い位置にかかることになる。それが高橋・・・とすれば、高橋が架けられている川であるから高橋川と言う推察も可能であろう。そして、その端が布留や春日、佐保と同格の、誰もが知りうる地名として認識されていたことは記憶にとどめておいていてよいであろう。だからこそ・・・みんなが知っている櫟津という地名だからこそ作者はここでその地名を迷いなく使い得たのであった・・・
以上が前回の記事の引き写しであるが、今回のここでの説明は在原寺跡に続いて影山先生。先生はさらに付け加え参加者に無理難題を仰せになられた。曰く…本日の講師でいらっしゃる先生方のお名前の文字「坂」「大」「野」「垣」「影」を詠みこんで一首を成せと。
「そんな無茶な~」
周囲からそんな声も漏れはしたが、何人かは真剣にその課題にこたえようとなさっている方もいらっしゃった。どうやら、一行には真面目なかたがおおいようである。私は…少しは考えてみたが、すぐに面倒くさくなってやめてしまった(笑)。しかしながら、そんなことでは
この方の前を涼しい顔で通り涼しい顔で通り過ぎたら、なんか怒られそうで怖くてならない。この方のお名前は…柿本朝臣人麻呂。
…その柿本人麻呂が、なぜこんな場所に座っているのか…その訳は下の写真が語ってくれている。
歌人顕昭による柿本人麻呂の伝記・家集の考証書柿本朝臣人麿勘文に「清輔(藤原)語りて云はく」として次のように記してある。
下向大和國之時 彼國古老民云 添上郡石上寺傍有社 稱春道社 其社中有寺 稱柿本寺 是人丸之堂也 其前田中有小塚 稱人丸墓 其塚靈所常鳴云々 清輔聞之 祝以行向之處春道社者有鳥居 柿本寺者只有礎計 人丸墓者四尺計之小塚也 無木而薄生 仍為後代建卒塔婆 其銘書柿本朝臣人丸墓。
大和の國に下向し時、彼の國の古老の民の云はく「添上郡石上寺の傍らに社有り。春道社と稱ふ。其の社の中寺有り。是れ人丸の堂なり。其の前の田中に小塚有り。人丸の墓と稱ふ。其の塚靈所にして常に成る云々。」と。清輔、之を聞きて祝ひて以て行向せし處、春道社は鳥居有り。柿本寺は只礎有る計りなり。人丸の墓は四尺計りの小塚なり。木無く薄生ゆ。仍りて後代の為に卒塔婆を建つ。其の銘に柿本朝臣人丸墓と書く。
恥を恐れずに訓読文も一緒に示してみた。その正確さに自信は全くないが、大体のところは分かっていただけるかと思う。顕昭はその柿本朝臣人麿勘文において、その作品・作者(柿本人麻呂)に対して、その時代が能う限りの考証を加えている。そしてその末尾の部分に「墓所事」なる一項目を設けている。引用した清輔の一文はそこから抜粋したものである。顕昭は清輔の猶子(養子と似ているがちょいと違う)であるから、その話を何かのきっかけで聞いたのであろう。清輔自身もその歌集「藤原清輔家集」に
大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆に柿本人丸の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり
世を経てもあふべかりける契こそ苔の下にもくちせざりけれ
なんて一節を残している。
顕昭自身は、これを受けてこの「墓所事」を「考萬葉人丸於石見國死去了(萬葉を考ふるに人丸は石見の國にて死にぬ)」と書き起こしている。これは万葉集に
柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首
鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(巻二・223)
とあるのを踏まえてのことだが、その上で義理の父の清輔の考えを踏襲し、「私按人丸於石州雖死亡 移其屍於和州歟(私按ずるに人丸は石州にて死亡にぬと雖へど、其の屍和州に移すか。)」と結論づけている。
そう・・・こここそが、かの稀代の歌人・・・歌聖、柿本人麻呂の墓所なのである。そして、そこに彼が祀られている故に、その塚は「歌塚」と呼ばれた。現在の碑は享保17年(1732)のもの。文字は後西天皇(1655~1663年在位)の皇女、宝鏡尼の筆によるものだという。上の石像は、見ての通り最近のもの。私がこの場所を訪れたのは今から30年ほど前・・・その時はこんな石像はなかった。
無論、ここが学問的な意味において柿本人麻呂の墓所であるかどうかは別の問題だ。ただ、ここがその墓所であるという伝承が古くからあり、多くの歌人たちがそう信じ、崇拝してきた事実は疑うまでもない。そのような意味においてまさしくこの小塚は「歌塚」なのである。
なお、柿本人麻呂の終焉の地についてあれこれ言われていることは多くの方のご存じの通り。私が大学に入ったころには梅原猛さんあたりがそれまでの研究史に一石を投じ話題になっていたが、これに対しアカディミックな立場からいろいろとあったこともわたしは知っている世代だ。そして、その師である大浜厳比古先生が梅原氏と一定の関係があったらしいこともあって、坂本先生も梅原氏とはやはり一定の関係もあったらしく、このお二人は大浜厳比古先生の最後の書となった「万葉幻視考」に文章を寄せられていたと記憶する。そのせいもあってか、坂本先生の梅原氏に対する評価は、その時代に私がお聴きすることのできた先生方の考えとは若干趣を異なりと持っているような気がする。
さらに少しだけ…ほんの1,2分だけ歩くとこんな石碑。
上に示した日本書紀に残る哀歌である。そしてここのすぐ横に
そしてちょいと振り返って急な階段を登れば和爾下神社本殿。
重要文化財とされてい本殿は残念ながら見えないが、なんでも桃山時代の建立で檜皮葺の三間社だそうで、その三つのお社にはそれぞれ素盞嗚命・大己貴命・櫛稲田姫命が祀られているそうだ。
最後まで行ってしまうつもりでいたが、今回もついつい長くなってしまった。これ以上皆さんにお付き合いいただくわけにはいかない。よって、今日はこれで終わり。次回こそ最後までたどり着きたいと思う。
コメント
例によってつまらないことが気になりまして……
狐の鳴き声がこの時代からコンコンだったとは驚きです。どうして鳴き声が気になるかといいますと、少なくともキタキツネはコンコンとは鳴かないからなのです。それはそれはすさまじい「ンぎゃーあっ!」という声で、初めて聞いたら腰を抜かしそうになることうけあいです。ブラキストン線を境に鳴き声が変化するんでしょうか?
もっとも夜漏三更とありますから(たぶん)深夜、昼間は「ぎゃあっ!」夜は近所に遠慮して「コンコン」と鳴き分けるのでしょうか? どなたかお教えくださいませんか。
それにしても「コンコン」と鳴いて煮え湯を浴びせかけられるとすれば、近所迷惑な「ぎゃあっ!」なら狐めはどんな目に会うことやら。
薄氷堂さんへ
私も先日宇陀の方を歩いていたら狐の鳴き声が聞こえてきまして…
私の耳には「ケーン」と聞こえる声でした。まあ、人によっていろいろな声に聞こえるんでしょうが、それらのトータルなところが「こんこん」となるのでしょうか。犬の鳴き声だって聞きようによっては「わんわん」じゃあないですし、猫だって…・
あの連中は字が読めないわけですから、文字を意識した発音なんかしないわけですし、それを文字に書き留めるということがそもそも無理な話なわけですから。
今、何を確かめればいいかわからないのですが、学生の頃のほのかな記憶をたどれば…
奈良時代には「許武」と表記していた狐の鳴き声が、平安以降「こうこう」あるいは「ここ」などの表記になりそれが後々「こんこん」になった。狐が時代によって鳴き声を変えたわけはないから、いずれの時代も同じ音を聞き表記したはずだ。そこで「撥音」の表記を考えた時、もともと日本の音韻体系にはなかった「撥音」はそれを表記するべき文字がなかった。それで奈良時代ではそれに最も近く聞こえる「武」平安時代には「こうこう」「ここ」(「ん」の表記を避けたのでしょうね)と書いていたようです。
そうそう、なんでもものの本によれば「くゎいくゎい」とか「くゎう」、または「わう」なんて書いたともあるらしいんですが、そのものの本というのがどれなんか確かめてはおりませんので何とも言えません。
>それにしても「コンコン」と鳴いて煮え湯を浴びせかけられるとすれば、近所迷惑な「ぎゃあっ!」なら狐めはどんな目に会うことやら。
なあに、この時代の人々ですからそんな声はきっと化け物かなんかなの声だと思って家の中でブルブル震えるんじゃないかとも思いますねえ。