前回、私はその昔唐土で語られた三神山(瀛洲、蓬莱、方丈)の逸話から話をはじめ、天武天皇は薬師寺建立の際に、大和三山の一つである畝傍山を強く意識していたらしいこと、さらにはその畝傍山を三神山の一つである瀛洲と見立てていたらしいことを述べた。そして次回には、「神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか」との疑問のお答えを提示することを予告していた。
けれども、この間にその前に語っておかねばならぬことを思いついた。思いつきでしか動かない私にとって、この思いつきを無視するわけにはいかない。ちょいとお付き合い願う。
それは天武天皇はなぜ畝傍山を瀛洲と見立てたのか、と言うことである。「大和には 群山むらやまあれど」(万葉集巻二・2)と舒明天皇が歌ったように、大和の地には他にも数々の山がある。そして古くからの信仰を集めているような山も少なくはない。そのような中から、なぜ畝傍山が選ばれたのか・・・・
ここで重要になってくるのが「三」という数字である。前回にも述べたように瀛洲は、道教においての三つの神山の一つだ。ということは大和の地に同様のものを求めるとなれば、それがいかに秀麗な山容を持ち多くの信仰を集めていたとしても単独の山、例えば三輪山であっては三神山にはならない。三つの山がセットとなったその一つでなければならないのだ。となると明日香に都をかまえていた天武天皇にとって最も心に焼き付く三つの山とは、今我々が呼ぶところの大和三山、すなわち香具山・耳成山・畝傍山の三山であっただろうことは想像に難くない。
盆地状の地形をなす大和平野に、たとえば秋の霧が立ちこめたような朝、少し小高い場所からこの平野を見下ろしたとき、その南端に三つの小島のように浮かぶその大和三山の姿を、今も我々は見ることができる。そんな大和三山を古代人がみたときに道教でいうところの三神山と見立てたと考えるのも無理からぬことのように思われる。つまり天武天皇はこの三つの山を道教の三神山と見立てていたのだ。
このことは後に造成された藤原京がこの三山を強く意識した造りになっていたことからも証明されよう。お暇な方は地図を取り出してきて、大和三山のそれぞれの頂上が作るところの三角形の頂点から、それぞれの底辺へと垂線を垂らしてみたらいい。その交点に大極殿は位置しているはずだ。
藤原京はその造成も完成も、天武天皇の皇后であった持統天皇の時代になるが、その計画自体は天武天皇の時代にはすでにあった。三つの神聖な山が都を守る…「三山鎮を作なす」地を天武天皇は好適の地と選んだのだ。
さて、話は先に進まねばならない。本当ならば藤原京の造成と大和三山、三神山の関係云々の部分をもっときちんと説明しなければならないところだが、詳細はこちら
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に譲り、ここでは前回からの課題となっている
神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか
という疑問にストレートの結びついて行く、解答らしきものを提示したいと思う。そのための重要な材料は古事記序文にある。以下に必要な部分を示す。
天皇詔りたまひしく、「朕が聞けらく、『諸家の賷てる帝紀および本辞、すでに正実に違たがひ、多く虚偽を加ふ』ときけり。今の時に当たりて、その失りを改めずは、いまだ幾年をも経ずして、その旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基ぞ。かれこれ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舍人あり、姓は稗田、名は阿礼、年はこれ廿八。人となり聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す。すなはち阿礼に勅語りして、帝皇の日継および先代の旧辞を誦み習はしめたまひき。然れども運移り世異りて、いまだその事を行ひたまはざりき。
新潮日本古典文学集成「古事記」
(天武)天皇の仰せになられたことには「私が聞いたことだが、『諸家が持っている帝紀と本辞とが、今では真実と違い多くの偽りを加えているらしい』ということだ。今の時点でその間違いを改めなかったら、幾年もたたないうちに、きっとその本旨は滅びてしまうだろう。これは国家の根本であり、天皇による政治の基礎である。そこで帝紀を一書にまとめ、本辞を詳しく調べて、偽りは削除し、真実を定め、後の世に伝えようと思う」と仰せられた。その時に稗田の阿礼という舎人がいた。年は二十八、まことに聡明で、一目見ればすぐさま暗誦し、耳で聞いたものはたちまち記憶した。そこで(天武天皇は)阿礼にお命じになって、歴代天皇の皇位継承の次第と神話・伝説・各氏族の縁起などを誦み習わさせられた。しかしながら時勢が移り世が変わって、まだ記し定めることをなさいなかった。
古事記の編纂のいきさつについての叙述である。選録とは「文章を述作して記録すること。書物を作って記録すること」。討覈とは「詳しく調べること」。要は諸家に伝わる誤り多き帝紀、旧辞を精査して訂正し、定本を後世に伝えたいとの天武天皇の意思がここには示されている。そしてその定本を稗田阿礼に誦習させたというのだ。
上にお示しした古事記に原文は新潮日本古典文学集成「古事記」の読み下しに従ったものだが、この書の校注者である西宮一民先生には学生の頃、2年ほど続けてその講義を拝聴する幸いに恵まれたが、その講義でお聞きした範囲の中ではあるが、先生はこの部分の記述については結構ストレートにお受け取りになっておられて、天武天皇の言葉をそのまま理解するべきだと言う。まずは天武天皇自身が古事記のもととなる定本をみずから作成し、それを稗田阿礼に誦習させ、さらにそれを太安万侶が苦労して筆録して現在に至っているとおっしゃっておられた。私もそうじゃあないかなあとは思っているのだが、異を唱える方もいらっしゃるような気もする。けれども、日本書紀にも
三月庚午朔癸酉、葬阿倍夫人。丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。
天武天皇十年
ともある。近年の大方の述べるところによればこれは日本書紀編纂の詔と言うことになるが、先の古事記序文も含めて、天武天皇には我が国の史書を編纂しようとの意思があったことは疑えない。とすれば、そこに天武天皇の歴史観が作用していたことを考えることにさして不自然はない。とすれば、あれだけ畝傍山を重んじていた天武天皇である。自分たちの始祖である神武天皇がその聖なる山の麓において治世を始めたということにしたと考えることはさして言いすぎだとは思えない。
以上で今回の私の申し述べたいことは終わる。以下は全くの蛇足で今回の文章の補足になるかどうか全くわからなし。ただ、以上の事柄を考えているうちに、我が心中にむらむらと湧き起こってきた全くの妄想である。したがって、「それならもういいや」というお方、ここで他のサイトへお移りになっていただいた方がよろしいかと思う。
それでは・・・
天武天皇の皇子である草壁皇子の挽歌に次のようにある。
・・・天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と・・・
日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 万葉集巻二・167
文脈を素直にとれば、ここは「 天雲の 八重かき別きて 神下し」たもうた日の御子(天武天皇)が明日香清御原宮において世をお治めになったと理解できよう。史書の記す天孫降臨神話とは違う。古事記・日本書紀の記すところは「 天雲の 八重かき別きて 神下し」たのは天照大神の御孫であるニニギノミコトであり、降臨した場所は日向高千穂の峰ということになっている。そして三代を経てカムヤマトイワレヒコノミコトが東征し、橿原の地にて即位したというのがその大筋である。しかるにこの歌によれば、その建都の地は明日香「飛ぶ鳥の 清御原の宮」であり、そうなると前半部の「 天雲の 八重かき別きて 神下し」たのは天武天皇となってしまう。
これには沢瀉久孝「万葉集注釈」にすでに「上からのつゞきでは天孫の事であるはずだが、次のつゞきは天武天皇の事になつてゐる。」と指摘があるが、この点について伊藤博「萬葉集釋注」には次のような見解が示されている。
味わうべきは、ここで、天武天皇を「高照らす日の御子」として「天照らす日女命」と同格に扱っている点である。皇孫邇邇芸命(ににぎのみこと)から天武天皇に至る悠遠の時間の流れを天武天皇一代の統治の中に封じこめることで、神心を現し代に呼びこんでしまっている。現し代を神代に化したといってもよい。天武天皇を日女の神の直接の子の神とし、以後を天皇と見るこの歌の意識(神話体系)では草壁皇子が人皇第一代なのである。
これを
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。
大嘗祭の本義
との折口信夫の見解を併せ、その言うところの食い違いを無視して、う~~んと想像(妄想)力をはたらかせて考えたならば、次のように言えるのではないか。
ニニギノミコト以降今にいたるまで血統上は幾人もの天皇が存在したことになるが、その天皇としての魂はニニギノミコト以降不変であって、極言すれば同一の存在として歴代の天皇を見ることができる。これに伊藤博の「皇孫邇邇芸命(ににぎのみこと)から天武天皇に至る悠遠の時間の流れを天武天皇一代の統治の中に封じこめ」たとする指摘を合わせ考えるならば、「天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し いませまつ」ったその主体はニニギノミコトであり、神武天皇でもあり、さらに歴代の天皇を含めて、天武天皇でもあった。すなわちその身体こそはそれぞれ別ではあったがその天皇としての魂は同一であったのだから神武天皇も天武天皇も同一の存在であるとの見方が成立するのではないか・・・とも言える。
そして、柿本人麻呂のこの挽歌を享受した人々に共感を呼んだとするならば、それはこの時代の共通認識であったと言える。
さらに蛇足をもう一つ、謚である。天武とか神武と言った謚は一般に漢風諡号と言われ、 元正天皇あたりまでのそれは淡海三船によって天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に一括撰進されたと想像されているから、天武天皇の時代にはなかったものであるが、その名を謚るという行為が、その人となりを離れて為されることは考えにくい。幾ばくの史的事実より、その謚が考えられたとすればその謚に「武」の字が使われていることは興味深い。他に武烈・桓武の例はあるが、この字を作った謚は天武天皇の皇統の男帝に使われる文字だからである文武天皇・聖武天皇。
天武天皇は、壬申の大乱という大仕事を経て皇位についた。神武天皇もまた東征という大仕事の結果皇位を得た。自らは神武天皇の再来である・・・との思いが天武天皇の中にあったのではないか、そして自らが神聖視する畝傍山にその神武天皇の建都の地を定めたのだ。そして自らもその地より「龍駕騰仙」したのであった。
てなことで、あえて強弁のそしり、我関せずとの姿勢を持ってあえて妄想を繰り広げてみた。その道の素人にのみ許される特権である。とはいえ、「なあに馬鹿みたいな事をいっているのだ」とのお叱りのお声は多いと思う。
そんなお声には一言お答えしておこう・・・
ごめんなさい。
コメント
妄想という表現をはじめとして、控え目なご発言ですが、内容はよく納得できます。
いけてるのではないでしょうか。
源さんへ
源さんにそう言っていただけるととてもうれしいです。
本当はもっと丁寧に話を進めなきゃならないんでしょうが、今の私にはこれで精いっぱい。
でも思いついたことは、言っちゃいたいんですよね。