玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ3

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神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか

これが今回のテーマである。この疑問について私なりの見解を申し述べる前に、まず話題を紀元前の唐土のとある逸話を紹介したい。

それは秦の始皇帝の時代まで遡る。大陸を統一した始皇帝はその領土を5度にわたり巡行する。それは2度目の巡行、渤海のほとりにおいてであった。周知の如く秦は元々内陸の国。始皇帝にとっては初めての海であっただろう。彼はその広大な景色をいたく気に入り、その海岸の地において、他の地に例を見ない長逗留をしたという。

ある日のことである。

昨日までなんの島影も見えなかった大海原のその遙か沖に、まぶしい光の中に揺らめく陸地が姿を現した。始皇帝をはじめとした一行が、この奇なる事実に腰を抜かしたことは言うまでもない。今ならば、それは蜃気楼だ・・・と済ませてしまうことであろうが、如何せん、彼等にはその知識がない。彼等の脳裏に浮かんだのは「神仙の地」という言葉である。

人あって始皇帝に言う。 「渤海東方の沖には蓬莱ほうらい、方丈、瀛洲えいしゅうの三神山がある。そこに神仙が住まいし、永遠の生命を約束する仙薬がある。」と 。

今の始皇帝には恐れるものは何一つ無かった。あったとすれば、彼が人間である限り避けることの出来ない命の終わり。 始皇帝はどうしても、その仙薬を手に入れたいと思った。そして、そこに現れたのが徐福という方士であった。

世に言う徐福伝説である。むろん以上は私なりの理解であり、しかもかなりの脚色が加えてある。だから不正確なところが多々あるとは思う。その点についてはどなたかお教えいただければ幸いであるが、ここは目をつぶって先に進むことにする。問題は蓬莱、方丈、瀛洲の三神山である。

なぜ、ここでこんな話が出てきたのか、いぶかしく思う方がおられるかも知れないが、そのあたりの疑問は後々おわかりいただけることとなるのでご辛抱いただくこととする。

さて、この話の根幹にあるものは、漢民族の土着的伝統的な宗教である道教である。道教は上代の日本にも強く影響を与えていたことは日本書紀の記述のあちらこちらに見ることが出来る。特に天武天皇の道教に対する傾倒ぶりは並々ならぬものであったらしい。

その証左としてまずは天皇という称号がある。天武天皇が「天皇」の称号を使用しはじめたことには、異説もあるが多くの支持を得ている学説であることは事実である。しかして、この「天皇」いう称号が道教のにおいて北極星を意味する天皇大帝から採ったものだという。いうまでもなく、北極星は北半球に住むものにとって、天空の中心たる存在である。

さらには八色やくさかばね。これは天武天皇が684年(天武13)に制定した新たな姓制度である。そこに定められた姓は「真人まひと、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の八つであるが、その最上位の「真人」は道教において理想とされる人間像である。

続いて陰陽寮の設置。いうまでもなく、この陰陽寮は陰陽道をつかさどる役所。そして陰陽道とは古代中国国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道・道教などの様々な要素をとりいれて日本特異の発展を遂げたものであり、とくに道教の影響は色濃く残っている。

そして何よりも天武天皇自身の天渟中原瀛真人天皇あめのぬなはらおきのまひとのすめらみことという和風諡号である。赤字で表記した瀛真人とは上の話の中にあった三神山のうちのひとつ、瀛洲にすむ仙人のことである。この和風諡号が文字通り諡号であって死後に贈られた名であるか、いみなであるかについては説が分かれてはいるが、いずれにしろ天武天皇の人となりを表した名であることは十分に考えられる。

いずれも天武天皇の道教に対しての並々ならぬ傾倒ぶりが窺われるが、これらの事実を踏まえたとき次の一文は非常に興味深いものとなる。

維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙

れ、清原宮に馭宇あめのした しろしめしし天皇、位に即きたまひて八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不豫みやまひしたまふ以て、此の伽藍を創る。しかるに鋪金ふきん未だ遂げたまわずして、龍駕騰仙したまえり

いわゆる薬師寺東塔擦管碑銘の前半部である。ここには薬師寺がいかなる所以を持ってその建立が始まったかが述べられている。すなわち、薬師寺の建立は天武天皇の発願によって始められた。680年、後に即位し持統天皇となる鵜野讃良皇后は重い病に苦しみ、夫である天武天皇はその病気平癒を祈願してこの薬師寺の建立を発願したのだという。問題はこの後に続く一節である。薬師寺建立の甲斐あってか、鵜野讃良の病は回復した。が、その建立を発願した天武天皇自身は、686年、その完成を見ずして崩御してしまったというのだ。その事実を示すのが「龍駕騰仙」の一節である。「龍駕」とは「天子の乗る車」、「騰仙」は「仙境に登り着く」ことかと思われる。その崩御をここでは天武天皇が仙境にたどり着いたと表現されている。その意志は持統天皇・文武天皇と受け継がれ、698年にその造営がほぼ終了することになるが、残された人々が、天武天皇の道教への思い入れをこの四文字に表現したものと言えよう。

そこで気になるのが薬師寺の位置である。薬師寺の巨大な伽藍は、当初、藤原京の右京八条三坊の地に位置していた。現在橿原市城殿町にその寺跡が残す本薬師寺跡がそうである。この寺の伽藍配置には、これまでの寺院とは決定的に異なるものがあった。それ以前の日本の寺院の伽藍配置は、どの寺においても塔は一つであったが、この薬師寺は初めて東西一対の塔を持つ新様式であった。壬申の大乱を勝ち残り天武天皇の強大な権力を誇示するものに他ならない。そして、注目するべきは、その東西の塔を結ぶラインが正確に畝傍山の山頂を指し示している事実である。

さらに、この薬師寺は平城京への遷都と共に、718年其の右京六条坊に移築され、730年にほぼその造営は完了するが、この移築された薬師寺もまた、約20km南に位置する畝傍山の山頂に正対しているのである。この事実は、かつての、そして現在の薬師寺が畝傍山を意識してその建立の場所を定めていたという考えを導く。この考えをさらに確かなものにしようと思えば、ならばなぜ薬師寺は畝傍山を意識しなければならなくなったのかを明らかにしなければならない。

「龍駕騰仙」の四文字にもう少しこだわってみよう。「龍駕」に乗り、天武天皇は仙境に至ったのだ。ならば、その仙境とは何処か・・・・その瀛真人の名の示すとおり瀛洲であると考えるのが穏当化と私は思う。天武天皇の魂魄はその現し身を離れ、三神山の一つ、瀛洲に至ったのである。そして畝傍山こそが天武天皇が瀛洲と見立てた聖なる山であったのではないかと私は思う。だからこそ、薬師寺はかくまでに強く畝傍山を意識した位置に配置されたのである。

ところで、

神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか

との一文で今回は書き始めた。しかるに話はいきなり大陸に飛び、続いて天武天皇の道教への入れ込みぶりを紹介し、薬師寺の東塔擦管碑銘へと話題は移り、最後にやっとの事で畝傍山が出てきた。しかしながら出てきたとは言っても、それは神武天皇の治世についてではなく、薬師寺との位置関係についての極めて怪しい話である。

皆さんはいつになったら本題にたどり着くのかと、さぞや呆れていらっしゃることだろうと思う。けれども、ぼちぼち私も疲れてきた。きっと皆さんも駄文にお付き合いいただいてきっとお疲れのことかと思う。前回からの宿題の答えは次回お示ししたいと思う。ご心配ご無用である。次回はきっとさらっと終われる予定である。あまり心配しないで人もお付き合い願いたい。

まあ、ここまで書けば何人かの方は「ははあ~ん」と思っていらっしゃるかと思う。特に玉村の源さんあたりは「何だそんなことか、そんなことを言うためにこんなに長々と・・・」なんて思っていらっしゃるかも知れない。それほど、あっさりと次回は終了する・・・予定である。

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     なんか呼ばれたような気がする。(^_^)

     以前、三友亭主人さんが、2つの薬師寺と畝傍山との位置関係について書かれたときには、その主旨がよく分からなかったのですが、今回はよく分かりましたし、納得もできます。

     ご本人は、「薬師寺との位置関係についての極めて怪しい話である」と謙遜していらっしゃいますが、そんなことはないと思います。イケてます。

     次回のお話に期待致します。

  2. 三友亭主人 より:

    源さんへ

    及び縦して申し訳ありません(笑)

    >2つの薬師寺と畝傍山との位置関係について書かれたときには
    まあ、はっきり言って前に書いたものの焼き直しです。
    前の時も触れておいたですが、薬師寺と畝傍山の位置関係については奈良在住の写真家の小川光三氏(小川さんは例の「大和の原像―知られざる古代太陽の道」の著者)のが「ならら」に御寄せになった一文で初めて知った事実です。

    最初にその文章に触れたときは仕事の出先で、ゆっくり読む間がなかったので後になってあっちこっちを探したのですが蜜あらなくって・・・。後になってチラチラと走り読みしたその時の記憶をもとに地図やらなんやらを引っ張り出して何とか一文にしましたが・・・果たしてどこまで言えるのやら自信はありません。

    まあ、乗り掛かった舟ですからいけるとこまでって感じです。