先日、仕事の関係で大和盆地の中西部にある大和高田という街に行った。ここ数年よく行く街である。それに、大和に出てきてからの10年ほどはこの街に住んでいたので結構馴染みのある街ではある。
昼食のときである。ちょいと用事があって駅の北にある郵便局まででかけた。車で行くほどの距離ではないのでフラフラと歩いてでかけた。「あれ…こんなところに池があったんだ…」なんて思いつつ、その畔にある小さな木立が気になった。
お社だ。
大和高田は4km四方ほどの狭い街で、だいたいのところには足を運んでいたつもりであったが、この神社は私の認識の中にはまったくなかった。そういえば、駅の北にはあまり行ったことがなかったなあ…なんて思いつつ、こうやってこのお社の存在に気づいたのもなにかの縁と思い、記念に一枚と思ったのだが…しまった、仕事先に忘れてきた…というわけなので写真はない。
お社の名は勝手神社。ご祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳命。初めの「正哉」について、お社の傍らにあった案内板には「まさかつ」ではなく、「まさか」と仮名がふってあった。調べてみたらどちらの読みもあるのだそうだ。ちなみに、この神様は天照大神の息子さんで、高千穂の峰に天下った邇邇藝命のお父君でいらっしゃるのが、この正哉吾勝勝速日天忍穂耳命である。
上でちょっと触れた傍らの看板があり、ちょいと興味深いことが書いてあった。写真をとっていなかったので、家に帰ってきてから、ネット上に上げてあるその看板を見つけ出し、そのテキストのみを写し取ってみた。
「経覚私要鈔」に文安四年、布施氏(ふせうじ)が押し寄せ、「深楽」の堂塔を焼いたという記録が見え、「寛永郷帳」にも「秦楽村」と記され、古来から秦氏とのかかわりが深いところとされている。「日本書紀」には、”韓人池を作る”とあり、渡来人が百済の「甘羅」の地名を移して「神楽」の文字をあて、これを音読して神楽とした説がある。…
大和高田市教育委員会
私が興味を持ったのはその前半部分。「渡来人が百済の「甘羅」の地名を移して『神楽』の文字をあて、」という部分。とくに「甘羅」という地名である。全く同じ地名が宇陀の地にもあるのである。であるから、以下はこの部分を前提として話を進めてゆく。
なぜ、明日香村のそれは「神」が「上」になっているかとか、なぜ「楽」の字が明日香と甲賀のそれにはないのかとかいうところはちょっと気になるが、それよりも気になるのは、これらの地域において、なにやら同じ地名がつくような所以があったのかどうかである。
地形的には、奈良県内の3つの「かむら」を見るだけでも、全く共通する部分がないことはわかる。となれば、看板にあったように「渡来人が百済の…」に従って、それらのいずれの地も百済に「甘羅」に由来するのかというと、詳しく調べもせずにそんな事を言うのは乱暴にすぎる。それに…大和高田の「甘羅」は近くに百済寺があったりするからなんとかこじつけられそうではあるが、ほかは…ちょいとこじつける自信はない…てなことを書いていたら、次のような一文が目に入ってきた。
飛鳥咲読第13回定例会
天空の里を訪ねる
―早春の多武峰談山神社から天空の里「尾曽」を巡る―
この一文によれば、
- 談山神社から明日香に向かって下ってゆく途中に「上」という集落がある。「上」と書いて 「かむら」と読む。これは私が先ほど紹介したところ。
- 一字で「かむら」と読む字は他に甲賀に「神」と書いて「かむら」と呼ぶところがある。
- 日本書紀の応神天皇16年の条に百済の阿花王が薨じた際に「天皇 召直支王謂之曰『汝返於國、以嗣位』 仍且賜東韓之地而遣之 東韓者 甘羅城 高難城 爾林城是也」。とあるという。
として以下のように続ける。
一方、矢作川の支流に「上村川」と言うのがあり、これを「かむらがわ」と呼びます。又、大宇陀に「神楽寺」と言うのがあり、これも「かむらじ」と言います。これらのことをあわせて考えると、百済の甘羅に住んでいた人たちが帰化したとき「甘羅」に「上川」「神楽」を当て、後に「川」や「楽」が略され「上」や「神」となり、音だけが「かむら」のまま残ったのかもしれません。「上」には細川谷古墳群と言うのがあって、そこから出てくる土器に渡来系を示すミニュチュア食器があります。渡来系の人々が住んでいたことは間違いなさそうです。
引用中の矢作川とは愛知県を流れるあの矢作川のことかなと思う。ちなみに「大宇陀に『神楽寺』と言うのがあり、これも「かむらじ」と言います。」とあるが、私にはこのお寺を発見することができなかった。
私が興味深かったのは、最後の部分の「『上』には細川谷古墳群と言うのがあって…」というくだり。おそらくは、
「細川谷古墳群の基礎的研究」~『奈良縣高市郡古墳誌』の活用と展望~
辰巳 俊輔(明日香村文化財調査研究紀要-第16号-)
のp17当たりを念頭に置いていらっしゃるのではないかと思う。これに従えば、大和高田の「神楽」と重なり合う部分があるということになる。となると、あとは宇陀の「甘羅」である。果たして…この地に渡来系の人々の影があるのか…
今の所私には思い当たるところがない。かといって、浅学の輩の思いつく範囲のことであるから詳しく見てゆけばどこかにあるのかもしれない。しばらくの逢田の検討の課題としてみたい。