再び 阿騎野人麻呂公園へ行ったわけ

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<前回から続く>

吾城あき屯田みたでひとごこちを付いた天武天皇正確には大海人皇子であるが、前回も述べたように今回も天武天皇で統一するの一行が、その後どのような経過を経て近江朝を討ち滅ぼし、明日香の地に都するに至ったか、それは私の拙い筆によるよりは、実際に日本書紀に当たってもらったほうが良い。手に汗握ることうけあいである。原文は漢文であるから、ちょいと自信がないなあということにはこんなのもある。

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だが、この壬申の乱に関する記述の緊迫感は、やはり原文を読むに若くはない少なくとも書き下し

前回から私が述べようとしているのは、私がその職場への道を遠回りして、なぜ阿騎野まで足を伸ばしたかということであった。それは、2月から3月にかけてこのブログで書いた想定されるところの天武天皇の吉野脱出経路(前回参照)がどうであろうと天武天皇の一行が確実に立ち寄った場所として、この吾城の屯田があるからである。壬申の乱から1350年の今年、私が天武天皇の吉野脱出について考え始めたのはほんの偶然であった。それは、我が愛車にて宇陀の地を走っていた時のこと、助手席の『妻が急に「あの山、何?」といった。』。その時から私の「烏の塒屋山」についての考察が始まり、筆は滑って、壬申の乱の際の天武天皇の吉野脱出まで話題が拡散していった。

日本書紀巻28、天武天皇が吉野を脱出し東国へと到る道筋を記した記述を私は何度も読み返していた。そして、まず気にかかったのが、吉野を脱出した天武天皇の一行が意図的にまず立ち寄った場所がこの吾城なのである。

なぜ、吾城なのか…

吉野脱出後最初に立ち寄ったこの吾城の屯田において、屯田の司 土師はじのむらじ馬手うまてが一行にをしものを供する。これは、この皇室直属の役人である屯田司が、近江朝ではなく、その近江朝にとっては反逆者である天武天皇の側に恭順の意を示したことになる。

むろん、この段階で土師連馬手が、近江朝と天武天皇との関係を把握していなかったかったことも考えられる。であるならば、大皇弟がやってきて食を供せよといえば、役目柄、喜んで食事の準備したであろう。けれども、近江朝が来るべき日に供え、吉野に対する包囲網を狭めている中、これはちょいと考えにくい。

やはり、この出来事は、土師連馬手が天武天皇に対しての恭順の意を示したもの…と考えたほうがいいであろうと思う。天武天皇はなんの手も打たずに吉野を出たわけではない。けれども、その手が有効に機能していたかどうか、それは確認するすべはない。不安を抱えながらの旅立ちであった。だからこそ、最初に立ち寄った吾城の地での歓待に、天武天皇の一行はまずは胸をなでおろしたことであろう。そして、どれほど気を強くしたことであろうか。

この地でこの一行は大伴連馬来田おおとものむらじまぐた黄書造大伴きふみのみやつこおおともが合流するわけであるが、彼らが手勢の者を引き連れていなかったわけはない。さらにこのその後吾城を出た一行は、ほど近い甘羅かむら宇陀市神楽岡あたりか?において大伴朴本連大国おおとものえのもとのむらじおおくにを首領とする猟師の一団、20名余が一向に付き従うことになる。

吉野を出たときには20数名だった集団が徐々にではあるが膨らみ始めたのがこの吾城の屯田であった。この地が、壬申の乱を勝利の内に終えた天武天皇にあっては、さぞかし印象深い地であったことであろう。

だからこそ…日本書紀天武天皇の9年3月23日の「菟田の吾城に幸す。」という一節は軽く見過ごすわけには行かない。この前年の天武天皇8年5月のことである。天武天皇は皇后、諸皇子を引き連れてかつての隠棲の地、吉野に赴いた。以下は、その時の記事である。

五月の庚辰かのえたつの朔甲申きのとう5日に吉野の宮に幸す。乙酉きのととり6日天皇すめらみこと、皇后きさき及び草壁くさかべの皇子みこ・大津皇子・高市たけち皇子・河島皇子・忍壁おさかべ皇子・芝基しき皇子にみことのりしてのたまはく、「われ、今日汝等いましたちともおほばちかひて、千歳の後に、事無からしめむと欲す。奈之何いかに。」とのたまふ。皇子等、共にこたへてまうさく、「ことはり實灼然いやちこたり。」とまうす。草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰さく、「天神あまつかみ地祇くにつかみ及び天皇、あきらめたまへ。おのれ兄弟あにおとと長幼おいたるいとけなきあはせて十餘王、おのおの異腹ことはらより出でたり。然れども同じき異なりと別かず、倶に天皇のみことのりに随ひて、相扶あひたすけてさかふること無けむ。し盟のごとくあらずは、身命いのち亡び、子孫うみのこ絶えむ。忘れじ、あやまたじ。」とまうす。五の皇子、次を以て相盟ふこと、先の如し。然して後に、天皇曰はく、「朕が等、各異腹にして生まれたり。然れども今一母ひとつおも同産はらからの如く慈まむ。」とのたまふ。則ちみそのひもひらきて其の六の皇子を抱きたまふ。因りて盟ひて曰はく、「若しの盟に違はば朕が身を亡ぼさむ。」とのたまふ。皇后の盟ひたまふこと、また天皇の如し。

日本書紀 天武天皇8年5月5日

直接そのことについては触れてはいないが、皇子たちを代表し草壁皇子が、「先づ進みて盟」いの言葉を奏上しているが、このことは草壁皇子が諸皇子の筆頭であることを印象付ける。すなわち、草壁皇子が天武天皇の後継であることを物語っている。天武天皇の2年2月27日、壬申の乱の勝者大海人皇子は即位する。あめの中原なはらおきの真人まひと天皇天武天皇の誕生である。以降、天武天皇は立て続けに壬申の戦いの論功を行い、更には内政・外交に精力的に取り組むことになる。天武8年はそういった諸々に一定の落ちる気が出てきた頃であろうか…通説によれば、この年天武天皇は50の坂を越えつつ合った。皇后である鸕野うの讃良さらら皇女との皇子である草壁皇子も成人の年齢に達しつつあった。天武天皇にしてみれば、このあたりで先々のことを落ち着かせたかったのであろう。

それが、吉野行幸の意味であった。そして、その意味にふさわしい場所として、かつて自らが現在の自分へと道を歩き始めた地、吉野を選んだのだ。天武天皇の吉野への思い入れは深い。

よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ

天武天皇 万葉集巻一/27

そして…その翌年の吾城阿騎野への行幸である。日本書紀の記述は誠にそっけなく多くを伝えてはくれてはいない。しかしながら、前年、吉野にて上述のようなことがあったとすれば、おそらく、この吾城行幸には草壁皇子が付き従ったと考えることにそう抵抗は感じさせない。後々との繋がりを考えれば、この吾城行幸は草壁皇子の天皇の後継者としてその位置を確たるものにするべく仕組まれたものではなかったか。

吉野が、父天武天皇が天皇位奪取の意思表示の地であるとすれば、吾城もまたその意思表示が最初に形として成った地である…

…てなことを考えつつ、阿騎野人麻呂公園についてかいたこの記事に戻る。

大和おいて、殆どの場所で桜はもうその盛りを過ぎた。あとは八重の桜やチラホラと咲き残った山桜が見られるのみである…
そこにある柿本人麻呂の勇姿は、かの有名な「ひむかしの…」を詠んだ時の姿を想像したもの。

天武天皇の後継と目されていた草壁皇子は天武天皇の崩御のあと、皇位につくことなく夭折した。その草壁皇子の一粒種、軽皇子が、やはり吾城阿騎野を訪ねた時のものである。この安騎野行は史書にはその記録が見えないが、万葉集の「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌万葉集巻一と題された連作によって知ることができる。そしてその末尾の一首、

日並の 皇子の命の 馬並めて み狩り立たしし 時は来向ふ

日並皇子の命、あの我らの大君が馬を勢揃いして猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。

によって、こ安騎野行の目的が狩りであったことがわかる。

多くの注釈書が云うようにそれはおそらくかつてこの地を訪れた軽皇子の父、草壁皇子をしのぶ道行であったことだろう。それは45番歌の「旅宿りせす いにしへ思ひて」46番歌の「寐も寝らめやも いにしへ思ふに」47番歌の「過ぎにし君が形見とそ來し」という句からも知ることができる。しかしながら、目的はそれだけではない。狩りは宮廷の重要な行事である。そしてこのたびの主催者は軽皇子であったことは十分に考えられることである…というか、それ以外は考えにくい。

とすれば、この狩りを無事に、大きな成果あるものとして終えることが出来たならば、軽皇子は群臣を指導するにふさわしい指導力を供えた存在になることになる。天皇になることの出来なかった父草壁の意思を継ぐべく彼はこの地に立っていたのだ。まさしく軽皇子の天皇位への道の1つ目のハードルであった。そして、その試練の地が壬申の大乱の勝利を呼び寄せた幸先の良い阿騎野であったことは偶然ではない。

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     誠に誠に迂闊なことながら、日本書紀の吾城と万葉集の安騎野とが同一の地であることを知りませんでした。お恥ずかしいことです。地名、大好きなのに。
     なんかもう、地名好きなどと言えません。
     2つの地名が同一の場所を指すものとすれば、今回の記事は大変よく納得できます。
     興味深い内容と存じます。

    • 三友亭主人 より:

      源さんへ

      たいへん遅くなりました。申し訳ありません。
      お返事をしたつもりでいたのですが、どうも失敗していたようです。

      >地名、大好きなのに。

      地名は面白いですねえ。ちょいと変わった地名に出会うとついついそのいわれを考えてしまいます。
      「変わった地名」でなくても、色々と考えることが多いです。