鳥見霊畤の所在について その5

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早川芳枝氏の「『建国の聖地』比定運動に見る統合と分裂ー鳥見霊畤の顕彰運動を一例に」(東洋大学『東洋通信』2013)というご論文をなぞるようにして、前回までの4回にわたって、我が国の初代天皇である神武天皇が「郊祀」を行なったという「鳥見山」の所在についてのレポートを行なった。まあ、あんなものをレポートと言ったら、学生時代の師匠からはお目玉を食らうかもしれないが、鳥見山の「霊畤」の所在地が古くからどのように考えられてきたのかについて、ある程度は追いかけられたかと思う。

…が、である。

そう、皆さんはすでにお気づきのこと思うが、鳥見山に「霊畤」を設け「郊祀」を行なったという神武天皇は、その存在が疑問視されている…というより、まあ、伝説の中の人物だと考えた方がいいだろうあえて言えば、ヤマト政権樹立に至るまでの何人もの人物を一人の人物として表象した人物。すなわち、お話上の存在なのである。そんなお話上の方が鳥見山に「霊畤」を設け「郊祀」を行なったといっても、しょせんそれは作り話なのだから、鳥見山がどこなのかなんて論議自体が無意味じゃないか…

そんな風にお考えの皆さんも少なくはないと思う。しかしながら、

記紀においてイワレヒコと呼ばれた神武天皇をもって初代とする理由や、とりわけここでとりあげようとする『日本書紀』の鳥見山の霊畤を語ることをいとも簡単に史実でないとしてしりぞけてしまっては、記紀の目指した「歴史」の意味を拾い上げることなく、いつまでも歴史にとって無用の存在としての位置しか与えられない。

と千田稔氏が「古代王権論と文芸社の射程」「日本研究」:国際日本文化研究センター紀要 16巻(1997)
で語るように、作り話ならば、なぜその作り話が作られ・・・語られ・・・ねばならなかったのかは考えられなければならない。その作業こそが古事記・日本書紀を遺した人々の、そしてそれと同時代を生きた人々の歴史認識、ひいてはその心の奥底に迫ってゆくに有効な手段になってくれるのだと思う。

ということで、以下はその千田氏が同論文で説くところとなる。若干の私見を加えるところもあるかもしれないが概ね氏の論述に従って以下の文は展開させてゆこうと思う。

氏は「鳥見山霊畤」は桜井市外山であるとの立場に立ち以下のように論を展開する。

まず「鳥見山霊畤」で行われた「郊祀」について。「郊祀」とは古代中国皇帝が都の郊外にて行った祭祀で、夏至には都の北郊外に設けた方形の丘において地の神を、冬至には南郊外に設けた円形の丘において天の神を祀る儀式である。日本においては桓武天皇の時代に2度行われたという記事が残っているが、氏は類似の祀りはやはり日本でも行われていて、例えば飛鳥におけるミハ山あるいは吉野山、藤原京と天武・持統陵が、その南郊外の円形の丘に相当するのだという。同氏「宮廷の意味と宗教的意味」(『古代日本の歴史地理学的研究』岩波書店1991年)

ならば桜井外山の鳥見山を南郊外の円形の丘に見立てるとすると、その北には皇宮がなければならないとし、氏は以下のように続ける。

鳥見山のほぼ真北に小字「式嶋」があり、この地名は欽明天皇の磯城嶋金刺宮の有力な比定地と考えられる。つまり、神武紀にいう鳥見霊畤は欽明天皇の磯城嶋金刺宮の南山ではなかったかという想定を導く。このことが、可能性の高いものとするならば、神武紀の一部に欽明朝の状況が挿入されていることになる。

つまり、欽明天皇の時代にあったことを初代神武天皇の行いとして描いたというのだ。このような視点に立って日本書紀を読み返した時、宇陀の地から大和盆地に進出しようとする神武軍を迎え撃ったのが、兄磯城えしきの軍であるとし、日本書紀神武天皇即位前紀を引用する。

我が皇師みいくさあたを破るにいたりて 大群集ひて 其の地に滿いはめり。因りて改めてづけて磐余いはれとす。或の曰はく「八十梟師やそたける 彼處に屯聚いはみたり…中略…名づけて磐余邑と曰う。」

引用は三友亭主人の独断で若干省略している。

ちなみに「八十梟師」は他の部分に「倭國の磯城邑に八十梟師あり」とあることから、「金刺宮」のあった磯城は磐余と隣接した地であるとするのが、日本書紀の編者の地理認識であるとした。まあそこまで言わなくとも地図を見れば一目瞭然だが、ここでは日本書紀の編者

すなわち神武天皇は宇陀の地から磐余へと攻め込み兄磯城を打ち破り、磐余一帯にまず覇権を獲得した。このことが神武天皇の和風諡号である「カムヤマトイワレビコ」のいわれである。そしてその「カムヤマトイワレビコ」という名称について、直木幸次郎氏の唱えるところを援用する「神武天皇の称号磐余彦の由来をめぐって」(『橿原考古学研究所論集第十』1988年

直木氏は5~6世紀の天皇家が磐余を中心に皇居を設けていたことをあげ、この時期磐余がヤマト王権の政治の中心の中心であったとし、中でも継体天皇が最終的に磐余に都をおいて事にも注目する。それは、継体天皇も皇統が途絶えたヤマト政権を応神天皇の5世の子孫であるとして継承するべく越前を出たが、素直に大和に入ることはできず、各地を巡っていることなどのイワレヒコ(神武天皇)とのに共通点を挙げている。さらにはやはり同じように大和に入る際にはご苦労のあった神功皇后。この方も最終的には居を構えられた。

どうやら、何かしらご苦労を重ねて大和に入り覇権を握ったお方は、磐余に居を構えるのがならいらしい。だとすれば、大和盆地に進入し磐余に覇権を獲得したした神武天皇の姿は、当時の社会情勢を下敷きにしたものと考えられる。まあ、このように考えると、ならばなぜその後神武天皇は畝傍山の麓に皇居を構えたのかという問題に直面してしまう。この点については以前少し考えたことがあった。

神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか これが今回のテーマである。この疑問について…

話を先に進めよう。欽明天皇についてである。

欽明天皇は継体天皇の皇子、母親は仁賢天皇の皇女手白香たしらか皇女である。父、継体天皇崩御の後、安閑天皇・宣化天皇についで皇位につく。が…である、ここが非常にややこしい話になっていて、継体天皇崩御から欽明天皇の即位までの数年間の諸記録が錯綜していて、何らかの政変があったのではないかとか、本当は安閑天皇・宣化天皇が即位することなく直接欽明天皇が即位したのではないのかとか、二つの政権が並立したのではないかと論議が喧しい。ともかく、一定の混乱がそこにあったことは容易に想像できる。そして、その混乱を収拾し即位したのが欽明天皇であった。そういった意味で欽明天皇は一つの時代を画期を呈した天皇であったのだろう。欽明天皇が後に「天国排開広庭あめくにおしはらきひろには天皇」との和風諡号が贈られていること、その陵墓が古墳時代後期にあっては最大規模を誇る橿原市の見瀬丸山古墳に当てる説が有力になってきていることを取り上げて千田氏は後世の人々に、その御代が特筆されるべき時代であったとの意識を刻み、それが神武天皇の伝承の投影されているのではないかと推定した。

千田氏は直接そこまでおっしゃってはおられないが、ここまでの記述をまとめるならば…日本書紀にあって記された「鳥見山霊畤」で「郊祀」を執り行ったのは、桜井外山の鳥見山を南にした、磯城嶋金刺宮の主である欽明天皇でなかったのか。そしてその事実が、日本書紀編纂時にあって神武天皇の伝承に取り込まれていった…ということになろうか。

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