玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ2

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前回の記事は次のような一文で結んだ。


確かに、これまで「橿原」なる地名については、何も考えることなく漠然と現在の「橿原」という地名がそれが古事記や万葉集のそれに直接に結びつくものと信じていた。軽い衝撃である。なにせ、宣長先生までがこのようにおっしゃっている。これはちょいとまじめに考えて見なければならない。

ということで、しばらくこの件についての考察を続けたいと思う。


これは、出張で出かけた御所市柏原、日本書記神武紀の神武天皇の国見の丘の場として名を知られた「掖上の嗛間の丘」の麓にある神武社の案内書にあった「初代神武天皇の即位した場所であるといわれる」という一節を見かけ、ふと今までの自分の常識は確かなのかという、単純な疑問を覚えたことに由来する。

町中の、ささやかなお社である。昨日出張の際に見かけたのでちょいと一枚とっておいた。場所は御所ごせ市柏原。 お社…
私たちは少なくとも私は疑いもなく、今橿原神宮のある地を古くから橿原と呼ばれていたと思っていた。しかしながら、少なくともこの地が「橿原」であることを証明する資料は、江戸期以降は存在しないという。現在においても「橿原」やそれを類推させるような字名は橿原市内には存在しない。

が・・・例えば古事記(神武記)には、東征し大和に入ってきたカムヤマトイワレビコは大和の旧勢力を平らげ即位し、「畝火うねび白檮原かしはら宮」において「天下」を「治」めたもうたとあり、例えば日本書紀(神武紀)には、神武天皇が「橿原宮」にて即位し、「畝傍の橿原に 宮柱底磐城の根に太立て」たとある。

さらに万葉集では柿本朝臣人麻呂の「近江荒都を過る時」の歌の冒頭、

玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと

万葉集巻一/29

とあり、大伴家持の族を喩す歌にも、

蜻蛉島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける

万葉集巻二十/4465

とあるように、橿原の地は畝傍山の関係は切り放ちがたい。そしてその位置関係を見るに、同じく神武紀には「畝傍の山の東南橿原の地」とあり、その所在を畝傍山東南麓に求めている。万葉集の諸注はこれに従っているようで、少なくとも私の手元の貧弱な蔵書の中には、これに異を唱えるような文言を見ることはない。よって、畝傍山の東南の麓以外に「橿原」の比定地などは考えたこともなかった。

しかしながら、大和誌、菅笠日記によれば、少なくとも近世には我々が思っているような場所に「橿原」という地名はなかったように考えてもよいようだ。それに比べ、今回話題に取り上げた「掖上の嗛間ほほまの丘」の麓、御所市柏原の地名の歴史は長く、柏原郷という郷名は奈良時代から見られ、東大寺文書などにも散見する。姓氏録左京神別には「柏原連」ともある

以上は概ね角川地名大辞典による記述になるが、さらにこの大辞典は

なお神武天皇の橿原宮は現在橿原市に比定されているが,江戸期には当地に比定する説が有力であった(大和志・大和名所図会・西国名所図会・大和遷都図考・菅笠日記など)。

と続く。

現在の橿原市という地名は1956年に 高市郡の八木町・今井町・畝傍町・真菅村・鴨公村と磯城郡の耳成村が合併したときについた名で、それ以前からあったわけではない。ここだけ見れば、それほど由来のある地名とは思えない。橿原市政が引かれる前にはすでに橿原神宮はあったのだから、市の名はここに由来すると考えるのは妥当かなと思う。

ならば・・・橿原神宮はなぜ今の地に・・・ということになる。現在の橿原神宮は、本当に橿原神宮としてしかるべき場所に位置しているのか、という疑問を抱かずにはいられない。

橿原神宮自体、そんなに由緒のある神社ではない。1890年の創建である。なんでも、神武天皇の宮跡だとの伝承に地元の有志達がここに橿原神宮創建の請願を始めた。これにいたく感じ入った明治天皇よって官幣大社として創建されたのだという。ならば、なぜ民間の有志達はその地名の残っていないこの地になぜ「橿原」を求めたのか?

私は神武天皇が実在の人物だとは思ってはいないし、これが大方の周知事項であると思う。したがって、当然のことながら、橿原宮も存在していたなどとは思っていないので、そこに宮跡の遺跡などが存するとは思ってはいないむろん明治の有志達が周知であったとは思わないが。だとすれば、考古学的なな発見がその位置の決定にかかわるはずはない。ひとえに日本書紀神武紀の

宇禰縻夜摩うねびやま畝傍山の東南の橿原は、けだし国の墺區もなか みやつくるべし

という先にあげた一節が唯一の根拠となる。

他にこれといった手掛かりがない以上この「宇禰縻夜摩うねびやま畝傍山の東南」という記述が重視されねばならないだろう。現在の橿原神宮が置かれているのは橿原市久米町。畝傍山の東南麓である。そしてそれが旧来の書注釈書の示すところでもある。

ふりかえって、御所市柏原の神武社は南西に位置し、しかも宣長先生のお聞きになった通り、1里ほど離れている。日本書紀の記述と照らし合わせたとき、そこにある齟齬はいかんともしがたい隔たりがある。しかも、私が当日見た限りでは、この地からは皮肉にも「掖上の嗛間の丘」が邪魔になって畝傍山は見えない。当日私は「掖上の嗛間の丘」のやや眺望の開ける場所に上る機会もあった。そこから畝傍山の方角を眺めたとき、確かに畝傍山は見えなことはなかったが、明日香、橿原市と御所市とを区切る舌状の丘陵の中に紛れ、畝傍山はさして目立つ眺望を示す山ではなかった。上にしめしたように橿原の地が畝傍山と密接な関係にあるならば、これはちょいと変だ。さらには、橿原神宮創建の際の様々な調査の中で、橿原神宮の置かれている久米町から橿の林であろう痕跡発見されたともいう。

これらの事実も考えあわせ、日本書紀の記述に従うならば、現在の橿原神宮の位置を疑う必要は認められず、旧来の考えを改めるには至らないというのが至りえた私の結論である。

とはいえ、今回の件は日頃何気なく当たり前と思っていたことでもよくよくその根拠を考えてみると・・・「はて?」ということがあるのだということを如実に教えてくれた。ある意味では「学問」へのいざない出会ったといえる。

てなことで次回も調子の乗って、もう少し妄想の翼を広げることにする。

それは・・・神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか・・・についてである。むろん、妄想に過ぎないがお付き合いいただければ幸いである。

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