行ったことのあるところ・・・茨城(続)

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てなことでいよいよ当日(前回からの続き)

電車の路線図やらバスの路線図やらを調べたところ、茨城県を効率よく観光するには自動車がベストであること、四人の意見が一致。レンタカーを借りることにした。私たちの宿舎からレンタカー屋さんがあるような市街地にはけっこう距離があったはずなのだが、この間をどのように移動したかは覚えていない。借りた車はいわゆるコンパクトカー。大の大人が4人乗るには少々狭くはあったが、なあに気にしない。

まず向かったのは筑波山。つくば市の市街地からは30分ほど、私たちはあっという間に筑波山神社の駐車場に着いた。登山の前にはまずは神様にご挨拶、私たちはその拝殿を前にして手を合わせ登山の許可を願い出る。OKが出たような気がしたので、その左の裏手にあるケーブルカー乗り場へと向かった。往復のチケットを買うとまもなく出発の時間。先ほどチケットを売っていた若い男の人が、今度はケーブルカーの前に立ち、乗客の乗り込みを促していた。ケーブルカーの運転席には誰もいなかったので、運転手はそのうちやってくるのかなと思っていたら、彼が運転手に早変わりした。一人三役である。

なかなかの人手不足だなあなんて思いながらケーブルカーに揺られることしばし。下りた場所は男体山・女体山の間に開けた平地で、土産物屋さんがいくつかあった。男体山・女体山の山頂からはここから登ることになる。本当ならば両方に登ればいいのだろうが、それほど時間にも体力にも余裕がない。一行で話し合った末、男体山に上ることにする。

登山路は・・・けっこう厳しかった。よく整備されているところもあれば、あんまり整備が行き届いていない場所もあった。ゼイゼイいいながらやっとこさ頂上にたどり着く。頂上にはこぢんまりとしたお社が一つ。弉伊諾イザナキ尊がご祭神だという(ということは女体山の神様は伊弉冉イザナミ尊だね)。あまり天気の良い日ではなかったが西に富士山の輪郭がうっすりと見えた。関東平野の広さを思い知らされた。

下山して土産物屋に入る。私の興味をひくようなものはなかったが、一行の一人は同僚へのお土産だと「ガマの油」を30個以上買い込んでいた。

続いて向かったのは偕楽園。筑波山神社からは自動車で1時間強。偕楽園は水戸藩第9代藩主徳川斉昭公創設の庭園で梅の名所として皆さんがご存じの名園である。季節が季節なので梅は咲いておらず、訪れている観光客もまばらであった。庭園内の興味をひかれたのが好文亭と呼ばれる木造2層3階建て建物。斉昭公がその位置定めから設計にも関わったというこの建物に斉昭公は、文人墨客や家臣、領地の人々を集めて、詩歌や養老の会などを催したという。

興味深かったのは、その名の由来。「東見記」という書物が引くところの「好文木」の項に「晉起居注」という書物に「晉武好文則梅開、廢學則梅不開云云」とあるとして「梅云好文木」と断じているのが出典なのだそうな。

「~~という書物が引くところの~~という書物に~~とあるとして~~なのだそうな」とずいぶん回りくどい言い方をしているが、「東見記」という書物は実見しこの項目を確認することができたが、「晉起居注」では「晉武好文則梅開、廢學則梅不開云云」という一説は確認できなかった。つまり、出典にちょいと怪しいところがあるのである。

ただ例えば日本国語大辞典には十訓抄、謡曲「老松浄瑠璃」、浄瑠璃「平仮名盛衰記」等にその用例を認め(ただし「晉武好文云々」という記述はない)、少なくとも江戸期には普通に梅のことを好文と呼び、それが中国由来の物言いであることは認識されていたことは確かであると思う。

偕楽園を後にして次にめざしたのは大洗海岸。四方を山に囲まれて暮らす大和人は、とにかく海が好きである(これは奈良時代に遡っても事情は変わらず、海を見て手放しではしゃいでいる万葉人の姿を彷彿とさせるような歌が万葉集には散見する)。茨城という海のある県にいて海を見に行かない手はない。もともと海辺の育ちである私だって、四方を山に囲まれた大和で暮らす息苦しさを晴らすには、やはり海に出るに限る。

偕楽園から車を走らせること30分。目の前に太平洋が開けてくる。那珂川河口、大洗水族館の駐車場に車を止める。

ひとしきり海を眺めた後、せっかくだからと大洗水族館(「アクアワールド」という愛称があるらしい)に入る。記憶に残っているのは、水揚げされた中では世界最大級とされるマンボウの剥製の展示。全長はなんと4m。それまで私が見たとことあったマンボウはせいぜい1.5mほどまでのものであったから、その巨大さにはかなり度肝を抜かれた。その衝撃のあまりであろうか・・・マンボウが売り物らしいこの水族館には日本最大のマンボウ専用の水槽があるらしいのだが、この水槽にはあんまり記憶がない(ひょっとしたら私たちが訪れたときにはまだなかったのかも知れない)。それどころか・・・いまこうやってこの水族館のことを思い返しても思い出せるのは巨大マンボウの剥製だけで、他のすべては何も覚えていない。ただうっすらと・・・けっこう見応えがあったなあと思い出せるのみである。

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     梅栄堂というお線香屋さんの「好文木」というお線香をもう四半世紀も愛用しています。箱には梅の絵。
     以前、その解説に、好文木というのは梅の異名と書いてあって、「ほほ~」と思って、それきりにしていました。お恥ずかしい。(^_^;

     晋の起居注は現存していないのでしょうね。『東見記』の記述も孫引きなのかもしれませんね。油断のならない世の中です。(^_^)

    • 三友亭主人 より:

      源さんへ

      「好文木」という言葉、私が知ったのは・・・お恥ずかしながら結構遅くなってからで、ついでだからその時のことを次の記事にあげてみようか・・・なんて思っています。

      晋の起居注はこんなののを見つけ、一通り探してみたんですが、「晉武好文則梅開、廢學則梅不開云云」なんて部分はなかったんですよね。「東見記」の著者はいったいどんな「晋起居注」を見たんでしょうねえ(笑)

  2. 根岸冬生 より:

    このつくばの研修の時って。けっこう心に葛藤を抱えていらしたんじゃなかったですか。当時のブログ記憶では。
    でも、何とか、僕らは今日まで生きている。
    やっぱり、照る日曇る日いろいろですね。

    大洗はよく、魚の仕入れで、出かけていました。
    昨日は三輪そうめんをいただきました。

    • 三友亭主人 より:

      そんなことを書いてた頃もありましたねえ   ちょいと分かれ道の時期でしたので。
      結局、それまでの道を歩くことにして、今に至っています。

  3. 玉村の源さん より:

     『東見記』って知らなかったのでググってみたら、江戸時代の著作なのですね。
     それなら、引用してある起居注も孫引きっぽいですね。

     日本書紀に1ヶ所だけ晋の起居注が引用してありますけど、日本書紀の編者は起居注を見たのか、それともこれまた引用なのか。
     [是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。](神功皇后66年条の注)

     卑弥呼と神功皇后とを重ね合わせようとしていますね。

    • 三友亭主人 より:

      源さんへ

      >引用してある起居注も孫引きっぽい

      まあ、晋の起居注の性格からして(今回調べてみて初めて知ったんですが 笑 )
      仕方がないと言えば仕方ないですよね。ひょっとすると「日本書紀」の編者は実物を見ていたかもしれないとは思うのですが、「東見記」の作者はねえ・・・

      こんな論文を見ることができました。

      「好文木考」(創価大学 日本語日本文学)

      前半はこの「好文木」の出典についての考察で、まあ誰も起居注なんか見ていないんじゃあないかなとされています。
      後半は、なれば出典もないのになぜそんな話が生じてきたかについての考察。
      ご本人も後半の考察についてはこれからだとおっしゃっているようですが、前半の出典そのものに関する調査は、私には納得のいくところがありました。

      • 玉村の源さん より:

         「好文木考」のご紹介、ありがとうございます。
         わかりやすく、読みやすい論文ですね。
         基本的な、押さえるべき事柄がきちんと押さえられていて、勉強になりました。
         よく納得できます。
         結論は慎重に保留していますけど、要するに、好文木に関する晋の起居注の記事は、内容の信憑性を高めるための全くのでっち上げで、なぜ出典に晋の起居注が選ばれたのかと言えば、晋の起居注は散逸してしまって、逸文しか残っていないから、ということなのではないでしょうか。
         勝手に先走ってしまいましたけど、それが正解のように思います。

        • 三友亭主人 より:

          源さんへ

          私のようなものでもすっと入ってくる文章で勉強になりました。
          他にいろいろ探してみましたが、私の検索術(?)ではここまでですが、「好文木」についてここまで詳しく触れている論文は・・・あんまり見当たりませんでした。

          私はこの「好文」という言葉、10数年前まで知らなかったのですが、ちょいとしたきっかけで知ることになりました。

          宮城では平成の17年まで効率の高校は男女別学が本筋でしたが、18年から順次男女共学化が進んでゆきました。
          その時のことなんですが私は石巻高校という高校を出たのですが・・・おっと、これは次の記事のネタにしましょうか(笑)