行ったことのあるところ・・・茨城

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つくば市への出張はひと月強の長きにおよんだわけであるが、なにもその間、ずっと働きづめであったわけではない。通常の勤務通り祝祭日はあったわけだから、しめて4回の土日の休み(うち1回は勤労感謝の日を含めた3連休)は自由に行動ができた。順番は確かではないが、そのうちの1回は自宅に帰ったし、折角板東の地まで行ったのであるからちょいと足を伸ばして宮城の実家へと帰ることもできた。そんでもって、1回は真面目にお勉強(この週は宿題が多かった)、そして・・・もう一回が、せっかく茨城県まで来たわけであるから、1日観光としゃれ込んだ。

今回はその1日観光について触れてみたい。

訪れた場所は、筑波山・偕楽園・そして大洗海岸の3箇所。

まず最初に向かったのは筑波山。

筑波山は言わずと知れた関東平野東部の名峰。二つの頂を持つ双耳峰である。富士山と対比して「西に富士、東に筑波」と称される。むろん高さは富士山の3776mに比して西側の男体山が871m、東側の女体山が877mと、二つの頂までの高さを合わせても遠く富士山にはおよばないが、どこまでも平坦な大地が広がる茨城の地にあって極めて目立つ山である。

古老曰はく 昔 神祖尊みおやのみこと諸神のみもとを巡り行でまして駿河の國福慈ふじ※富士 三友亭注 の岳に到りまし つひに日暮にひて遇宿やどりを請ひたまひき。 此の時 福慈神答へて曰はく 「新粟わせ初甞にひなへして家内諱忌ものいみせり。今日の間はねがはくは許しへじ。」
是に神祖の尊 恨み泣きて詈告りたまひしく 「すなはいましが親ぞ。何ぞ宿さまく欲りせぬ。汝がめる山は、生涯の極み 冬も夏も雪ふり霜おきて冷寒さむさ重襲しきり 人民ひと登らず 飲食をしものまつりそ」とのりたまひき。

更に筑波の岳に登り また客止やどりを請ひたまひき。 此の時 筑波の神答へけらく 「今夜は新粟甞にひなへすれども 敢へて尊旨みことつかへまつらずはあらじ。」。ここに飲食をけてゐやおろがつつしつかへまつりき。 是に神祖の尊 歡然よろこびて謌ひたまひしく

しきかも我がすゑ たかきかもかむつ宮 天地あめつち竝齊ひとしく 日月と共同ともに 人民たみくさ集ひき 飲食みけみき富豐ゆたけく 代代に絶ゆるなく 彌榮いやさかへ 千秋ちあき萬歳よろづよに 遊樂たのしみつき

是を以ちて福慈岳は常に雪ふりて登臨のぼることを得ず。其の筑波の岳は 往き集ひて歌ひ舞ひさけのものくらふこと 今に至るまで絶えず。

常陸国風土記 筑波郡

こんな話が残っているくらいだから、古代の坂東の民にあってもこの二山は目につく山であったのだと思う。近代にいたっても正岡子規が

赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

なんて句も残しているぐらいだから、関東平野の東の勇として長く意識され続けていたのだと思う。

ところで上の風土記の一節に

其の筑波の岳は 往き集ひて歌ひ舞ひ飲み喫ふこと 今に至るまで絶えず。

とある。

上記のようないきさつの末、富士山は「常に雪ふりて登臨ることを得ず」と人々の近寄りがたい山になり、筑波山は人々が「往き集ひて歌ひ舞ひ飲み喫ふこと 今に至るまで絶え」ない・・・皆に親しまれる山になった・・・ということだが、これは万葉集に歌われている次の1首にもよく示されている。

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津もはきつの その津の上に 率ひて 娘子をとめ壮士をとこの 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな

鷲の棲む筑波山の裳羽服津※語義未詳 三友亭 の津のあたりに連れ立って若い男女が集まり、歌って踊ってのこの「かかひ」(歌垣)で人妻にわたしも交わろう。 わたしの妻に人も言い寄ったらよい。この山を治める神が昔からお許しくださっている行事なのだ。今日ばかりはそんな目で見ないでくれ、咎めだてしないでくれ。

高橋虫麻呂集・万葉集巻九・1759

歌中の「裳羽服津」とはおそらく地名であろうが、所在不明。ただし筑波山近辺であることは動かない。「かがひ」とは歌垣の東国方言。歌垣とは「一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った」と「時代別国語大辞典」にある。そんなにぎやかな行事が年に幾度か、この筑波の山であったのだ。常陸国風土記の上記引用部分に続く部分に

筑波嶺の会につまどひの財を得ざれば、児女とせずといへり。

とあるぐらいだから結構盛大にこの山で歌舞飲食、そして性的開放が行われていたのだと思う。まさしく筑波の山は「人民たみくさ」の集える山であったのだ。

ところで・・・この歌、万葉集では「高橋虫麻呂の集に出づ」とある。「高橋虫麻呂集」は万葉集編纂の際に資料になった先行歌集の一つ。伝説歌人とも称せられる万葉歌人の高橋虫麻呂の名を関している※かといって、その収録歌が虫麻呂の作であるとは限らない。一部に当時常陸国の国守であった藤原宇合の部下として常陸国風土記の編纂にかかわっていたのではないかとみる向きもある。むろん異を唱える向きも少なくはないが、別の場で富士山を峩々として厳しい姿を「富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もち消ちつつ」と詠んでいることを思えば、筑波山の詠みぶりと対比してみたときに、まことに興味深い考えだとも受け取れる。

つくば市での生活が数週に及んで、毎日のように筑波山は私の視野に入っていた。上のような話や歌を思い出さないはずがない。一緒に奈良からやってきたメンツのうちの一人が、「今度の週末、車借りてどっか行こうか。」と提案した。私を含めたほかの3人はそれはいいな・・・と同意。それならばどこへ・・・という話になった。私は早速筑波山を提案。皆の同意を得た。

てなことでいよいよ当日(次回に続く)。


※いきなりこんな書き出しでは、初めておいでの方には何のことやらとんとお分かりにならないと思う。本ブログでは今年に入って「行ったことのあるところ」と称して私の思い出話にお付き合いを願っている。そしてここから話が少々複雑になるのだが、実は4月に本ブログは引っ越しを行い、その際に前住所の記事はすべてこの住所に放り込んだ。そして4月から今ご覧の住所で書き始めていたのだが、とある事情で4月から書いていた新しい住所でのすべての記事をすべて消してしまった。今回書いた内容の先行記事もそこにあったので、一連の流れを遡ってたどろうにも辿ることはできない。だからといって、もう一遍書けと言われてももう書けない。はなはだ心苦しいのであるが、そこのところは目をつぶってお付き合い願いたい。まあ、私が以前なが~い出張に出かけた時の思い出ぐらいのつもりでお付き合いください。

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