前回は
ここまで考えてきて、ちょいと「あれ?」と思うことがあった。今回述べたことと直接かかわることもあるし、そうでないものもある。次回までにその「あれ?」についてお話しする準備ができたならいいなと思う。
てな感じで結んでおいた。「準備が出来たら」とは書いたのだが、「ちょいと『あれ?』と思」った程度のことなので、そんなに堅苦しく考えることもないか…と思いあらため、以下にテキトーなことを書いてみたいと思う。
本題に入る前に…
宇陀市内原あたりから南を向いて取った写真である。中央のとんがった部分が烏の塒屋山である。
どうです…結構目立つ山でしょう…そもそも、「烏のねぐら」とは、いかにもいわれのありそうな名ではあるが、この場合の烏は、烏は烏でもただの烏ではない。古事記や日本書紀にも登場する伝説上のあの…そう八咫烏のことである。東征の際に熊野に上陸した神武天皇の道先案内を務めたという、あの有名な烏である。
その八咫烏がねぐらとしていたのがこの山だというのだ。
しかしながら、古事記を読んでも日本書紀を読んでも、神武東征の部分にはこんな山の名は見たことはない。だいたいこんな山の名は今回初めて知った。古事記だって日本書紀だってこれまで何度かは目を通しているし、その中でも神武東征の辺りなんかは特別に関心を持って読んでいたはずなのに…読み漏らしていたのだろうか、などともう一度そのあたりを眺めてみる。やはり出てこない…ちょいと調べは入れてみたものの、どんないわれで、いつごろからこの山が「烏の塒屋山」と呼ばれ、八咫烏の塒なんてお話が成立したのか、全く見当がつかない。無論その出典は明らかにできなかった。ただいくつかの登山好きな方々の山の紹介のサイトでそのように語られているだけである。
とはいえ、件の角川日本地名大辞典にも同様のことが書かれてあり、まんざらいい加減な話でもなさそうだ。
調べてわからなければ、あとは勝手に妄想するだけだ。いい加減な妄想でもこうして世に放てば、どこかの奇特なお方が「おまえはなにをいい加減なことをいっているんだ。」といって、本当のことを教えてくれるやもしれぬ。
ということで…
「烏の塒屋山」は上のような写真のように、まことに目立った山容を持った山。そして、その東の麓は、吉野の宮滝のあたりからの道を宇陀へと抜ける峠道が津風呂川沿いに走る。この道はおそらく壬申の乱の際に天武天皇が吉野を脱出したときの経路だと考えられる。
672年6月24日、近江京を離れ吉野に隠棲していた大海人皇子は、迫りくる危機の中、吉野を脱出する。
その経路は
津振川に逮りて、車駕始めて至れり…
…卽日に菟田の吾城に至る
日本書紀天武天皇即位前六月二四日
そして
大伴連馬来田 黄書造大伴 吉野宮より追ひ至けり
とあることを考えると、天武天皇は上の峠道を抜けた確率が高い。となれば、吉野から宇陀へ抜けようとした天武天皇の一行は、このとんがった頂きを目印に、その東を抜けようと歩みを進めたち違いない。この山が天武天皇一行の「導き」の役割を果たしたのだ。
また、古事記序文に
(天武天皇が)阿礼に勅語りして、帝皇の日継および先代の旧辞を誦み習はしめたまひき。
とあるのに従えば、古事記は天武天皇が語った「帝皇の日継および先代の旧辞」を稗田阿礼が「誦み習は」したものということになるが、上のような経験をした天武天皇が語った東征の際の神武天皇の宇陀への侵入経路は、壬申の乱の際の天武天皇の道筋と同じであったに違いない。そしてその時神武天皇の一行を導いたのが八咫烏であることを考え合わせれば、その山が後の人々の間で「導きの神」である八咫烏と関連付けられるようになったのも、そんなに不自然であるようには思われない。ましてや、宇陀は八咫烏の活躍した場所でもある。
故、まづ八咫烏を 遣 はして、二人に問ひて曰ひしく、「今、天つ神の御子 幸 でましつ。 汝等 仕へ奉らむや」といひきここに兄宇迦斯、 鳴鏑 をもちてその使を待ち 射返 しき。
古事記、神武天皇の東征の一場面であるが、ここで八咫烏は単に「導き」の役割だけではなく、使者としての役割をも果たすようになっている。その宇陀の地に八咫烏の「塒」があったって別に変じゃないではないか。