なぜこの場所が「とび」なのかとの疑問が生じてこようかと思う。その点については上記引用の「精選版日本国語大辞典」や「國學院大學デジタルミュージアム万葉神事語辞典」の説明が的を射たものであると言える。私もその説明にほとんど納得しているのだが、いささか付け加えたいことがなくもない。次回できればお示ししたいと思う。
と前回は結んでおいた。引用中に示した「精選版日本国語大辞典」や「國學院大學デジタルミュージアム万葉神事語辞典」の説明とは次のようなものである。
精選版 日本国語大辞典「跡見」の項
(「と」は「あと」の意) 狩猟の時、鳥獣の通ったあとを見て、そのゆくえ、居場所を考えること。また、その人。
万葉(8C後)六・九二六「やすみしし わご大王は み吉野の 蜻蛉の小野の 野の上(うへ)には 跡見(とみ)居(す)ゑ置きて」
國學院大學デジタルミュージアム万葉神事語辞典「とみやま」の項
狩の際に獣の足跡をみて、大小や頭数を判断し、それを追ったり、うかがったりする者をいうことから、そうした者の居る山をいう
このように「とみ」の語義を考えることが許されるとすれば、「とみ」が本来の形であり、「とび」はその転訛したものと考えてよい。だから、冒頭引用の宴会の記事に「とび」としたのは正しくない。「とみ」としたほうが、よろしいかとおもう。
ところで・・・以上のような考えに立った時、私は「日本書紀」の次の記事がちょいと気にかかってくる。
それは天智天皇が病に倒れ、大海人皇子が吉野に籠った後のことである。大海人皇子は、天智天皇の亡き後の近江朝方が自分をなきものとしようと企てていることを察知し、吉野を出て東へと向かう。壬申の乱前夜である。大海人皇子一行は吉野を出て宇陀に至る。
甘羅村を過ぎ、獵者二十餘人有り。大伴朴本連大國、獵者の首たり。則ち悉に喚して從駕らしむ。
「甘羅」なる地名は現在残ってはいないが、角川地名大辞典は大日本地名辞書の考えを受け現在の「現在の大宇陀町春日の神楽岡付近に比定される」としている。
甘羅村壬申の乱の際吉野宮を出発し東国へ向かった大海人皇子ら一行は,途中「菟田の吾城」から「甘羅村」を通過し,この地で大伴朴本連大国を長とする猟人20余人をその配下に加えたとある(天武紀元年6月甲申条)
とはその項の説明である。大伴朴本連大國なる人物がいかなる人物なのか定かではないが、その名からして大伴氏の同族であることがわかる。大伴氏は大海人皇子の挙兵に応じ、兵をあげているし、おそらくはこの時点で大伴氏の長のような位置にあったであろう、大伴馬来田は同日大海人皇子の一行に加わっていることを見ると、朴本連大國が大海人皇子の一行に加わったのは、大伴氏としてのこうした行動と一連のものであったのだろう。
注目したいのは「獵者二十餘人」の存在である。おそらくは宇陀の地を主に狩場としていた彼らは、必然的に宇陀の地理には詳しい。なおかつ、「獵」りをする人である以上、弓の技術には長けていたであろうとも思われる。実に心強い加勢であったに違いない。そして朴本連大國が彼らの「首」であった。この点を重視すれば、朴本連大國の本貫とする地域は宇陀の山地と推定される。
ところで、私が高校の頃、日本史の教科書には確か古代の大和盆地における豪族の勢力図のようなものが載っていて、それによると大伴氏の勢力範囲は確か耳成山の辺りから桜井市三輪山の南麓の辺りまで…すなわち現在の橿原市竹田の辺りから、ここんところずっとあれこれ考え中の桜井市外山の辺りまでとなっていたと記憶する。
大伴坂上郎女従跡見庄賜留宅女子大嬢歌一首
萬葉集巻四・723/724
大伴坂上郎女竹田庄作歌二首
萬葉集巻八・1592/1593
との萬葉集の記述もそのことを裏付ける。
しかしながら、大伴朴本連大國のような人間が同族にいたとすれば、大伴氏の庄とするところはもう少し山間部にも及んでおり、
大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首
吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の 妻呼ぶ声を 聞くが羨しさ
萬葉集巻八・1561
なんて歌があるのも、この故で…となると「跡見」の指し示す範囲は、思っているよりも東、山間のあたりまで及んでいたと考えた方がよいのかもしれない。