紀朝臣鹿人の、跡見茂岡の松の樹の歌一首
茂岡に 神さび立ちて 栄たる 千代松の木の 年の知らなく
跡見の茂岡に神々しくも立ち栄えている千代を待つ、その松の木はどれほど年を経ていることか見当もつかない。
(六・990)
大伴坂上郎女、跡見の庄より、宅に留まれる女子、大嬢に賜ふ歌一首 并せて短歌
常世にと 我が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷に この月ごろも ありかつましじ
あの世へと私が行くというのでもないのに、家の門に立って悲しんでいたわが子のあなたを、ぬばたまの夜と言わず昼と言わずに思っていると、わが身は痩せてしまいました。嘆き悲しみ袖まで濡れてしまいました。こうも不安で恋しく思うと故郷のこの地に長く過ごすことが堪えられそうにありません。
(四・723)
朝髪の 思ひ乱れて かくばかり なねが恋ふれそ 夢に見えける
朝起きたばかりの乱れ髪のように、こんなにも心乱れて思うからでしょう、夢にあなたの姿が見えましたよ。
(四・724)
右の歌は、大嬢が進る歌に報へ賜ふ。
典鋳正紀朝臣鹿人、衛門大尉大伴宿祢稲公の跡見の庄に至りて作る歌一首
射目立てて 跡見の岡辺の なでしこが花 ふさ手折り 我は持ちて行く 奈良人のため
跡見の岡辺の撫子の花をたっぷりと手折って私は持っていくよ。奈良の都で私の帰りを待っているあの人のために。
(八・1549)
大伴坂上郎女、跡見の田庄にして作る歌二首
妹が目を 始見の崎の 秋萩は この月ごろは 散りこすなゆめ
あの子の目をわずか(はつか)に見るような、その始見の崎の秋萩は今月ばかりは決して散らないでほしいなあ
(八・1560)
吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ
吉隠の猪養の山に伏す鹿が妻を呼ぶ声を聞くと羨ましいことだなあ
(八・1561)
雪に寄する
うかねらふ 跡見山雪の いちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも
(うかねらふ)跡見山の雪のようにはっきりと恋をしたならば、愛しい妹の名前を人は知ってしまうのだろうか。
(十・2346)
現在の桜井市外山。鳥見・登見・迹見とも書く。かつては、もう少しその領域は広く、桜井市の鳥見山(245m)の北麓から、その東方の宇陀市榛原の西峠にかけての初瀬川・吉隠川流域の地をさしていたという。しかしながら、金子元臣はその「萬葉集評釈」に
大和宇陀郡榛原の跡見で、西は直ちに吉隱、猪養の岡(又は山とも)に接した、鳥見山下の別莊である。
との考えが示し、「生駒郡の迹見、或は磯城郡の迹見(外山)とする諸説は非」と断じている。吉隱の北にある鳥見山(標高723m)の麓の地とする考えである。
鳥見山であればその西方に吉隱が接しており、萬葉集1516歌とも齟齬しない。が、萬葉集1549歌・1560,1561歌の題詞に「庄」「田庄」とあるのによれば、どうやらこの地は大伴氏の所領であったと考えられ、そうだとすれば金子氏の説く地では山中にすぎるようにも思える。
「跡見」を桜井市外山だとすると、その南方に聳える鳥見山(244m)と考えられる。この山の西の麓に鎮座する等彌神社は「延喜式神名帳」の大和国城上郡等彌神社に比定されている。当初は鳥見山中に鎮座していたらしいが、天永3(1112)年にあった山崩れで社殿が埋没、その後現在の位置に遷ったらしい。その社伝に、
由緒については皇紀4年春2月23日、神武天皇がこの地に於いて皇祖天神を祭祀されたのが、そもそもの淵源であり…
とあるが、これは「日本書紀」に
四年の春二月の壬戌の朔甲申に、詔して曰はく「我が皇祖の靈、天より降り鑒て、朕が躬を光らし助けたまへり。今諸の虜、已に平けて、海內事無し。以つて天神を郊祀りて、用て大孝を申べたまふべし。」乃ち靈畤を鳥見山の中に立てて、其地を號づけて上つ小野の榛原・下つ小野の榛原と曰ふ。
とあることによる伝承である。
なお、同名の山が、宇陀市と桜井市の市境にある。上で「跡見」が宇陀市榛原であるとの考えを示した金子元臣は同書にて「鳥見山は神武天皇の施政の始、靈畤を立てられた處」とし、ここでいう鳥見山も、この市境の鳥見山であるとする。
上の写真は、榛原駅前にあるもので、金子氏と同じ考えに基づいてのものだろう。