前回は
廣瀬の地が大和盆地の治水の要である事実は確かではあると思う。そのことにあわせて、天武天皇がこの地を重視しなければならなかったもう一つの原因は次回考えてみたい。
なんて感じで終ってしまった。だから、そのもう一つの原因について今回はお話ししなければならない。しかしながら、勢いで「もう一つの原因」なんて書いてしまったものの、自分の中に確たるものがあるわけではない。なんとなく、こんなんじゃないのかな~と、我が浅薄なる脳内に漠として存在している…そんな形にならないものに、今回は無理やり形を付ける作業を行ってみたい。したがって今回も眉にたっぷりと唾を付けなければならないのは前回と同じである。
まず、下の図をご覧いただきたい。
ご存じミツカンさんが運営しておられる「水の文化センター」というサイトからお借りしてきているのだが、大和盆地における水の動きが一目でわかる優れモノだと思う。そして…やはりその中心が廣瀬野だということもお分かりいただけるであろう。
川は田畑に潤いをもたらし、我々に恵みを与える。けれども…時には牙を剝き、我々すべてを奪ってしまう。だからこそ、その川が我々に恵みを与え続け、決して牙を剝くようなことがないようにするための治水は、帝王の業でもある。
しかしながら、川のもたらす恵みは、なにも田畑のうるおいのみではない。
冬十月に百済の聖明王、西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る
日本書紀(欽明天皇十三年)
とは仏教の伝来の一節。そしてこの折の天皇が欽明天皇であったことを考えれば、その場所はおそらく海石榴市。であれば、この使者は大和川を船で遡り、廣瀬野を抜け、大和川が初瀬川、あるいは三輪川と呼ばれているこの海柘榴市で大和の地を踏んだのだ。時代を少し下らせれば
秋八月、唐の客、京に入る。是の日に飾り馬七十五匹を遣して唐の客を海柘榴市の衢に迎ふ。
日本書紀(推古天皇十六年)
川は移動に手段であったのだ。
ここで話は話をちょいと時代を遡る。3世紀のことだ。
是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相ひ踵ぎて、手遞伝にして運ぶ。
日本書紀(崇神天皇十年)
とは日本書紀の箸墓築造に関わる記事。ようは「大坂山の石」を人々が、奈良の盆地に一列に連なり、バケツリレーよろしく石を運んで作ったというのだ。問題は「大阪山」の位置。二上山がその候補地であり、引用した伝承はその認識に基づいたもののように見受けられるが、近年の研究の成果は、箸墓で用いられた石は奈良と大阪の県境を越えた、大和川左岸の芝山頂上付近でみられる芝山火山岩であることを示す。
であれば、「奈良の盆地に一列に連なり、バケツリレーよろしく石を運んで」なんてことを考えなければ、その意思を運んだのは舟。大和川を遡り、現在の桜井市芝の地で巻向川を通って…そういえば、巻向小学校の発掘調査で見つかった濠が箸墓にまっすぐに向かっていることはあまりにも有名な事実である。とすれば、巻向川を遡った芝山の石がこの濠を通って箸墓に運ばれたなんて妄想も可能だったのではないか。
川は物流の手段でもあったのだ。
であるならば、大和の地においてその拠点となり得るような場所はどこか…今更ここで云々するまでもないであろう。上の図からもうかがえるように、大和盆地のほとんどの川はこの地に集結し、一本となり、大坂山のふもとを抜ける。その先にあるものは海であり、西国であり、大陸である。
話は少々それてしまうが、例えば藤原京。天武天皇が構想し、妻の持統天皇が完成させたわが国初の固定化された宮城であるが、その材は近江の国田上山に求められた。田上山から切り出された木材は宇治川を下り、巨椋の地より木津川を遡った。そこで陸揚げされた木材は平城山を越え、佐保川を下る。そして廣瀬野の地のやや上流から、おそらくは寺川を遡った材木は米川、そして斉明天皇の時代に造成された「狂心の渠」を改修した堀川を南に…
参照→藤岡謙二郎『古代奈良盆地の河川と溜池に関する若干の歴史地理学的問題』(「奈良大学紀要 第10号」1981年12月)
ここまで言えば、私の申し上げたいことは大方お分かりいただけることと思う。川は灌漑のためのみにあるのではなく、ましてやその猛威を制御するするべき対象としてのみあるのでもない。水運という重要な役割も川にはある。そしてその水運は人やモノの移動の手段として、経済的な富をもたらしうることも周知のとおりである。
ならば、その拠点となり得る廣瀬野の地を掌握しておきたい…と思うのは、権力の頂点に立ったものならば、誰でも考えることなのではなかろうか。
前回、あんなことを書いたものだから、S君より便りをいただいた。その便りの中で前回の記事に関わって
『広瀬大忌祭と龍田風神祭の成立と目的について』山口えり
というご論文を教えていただいた。まことに勉強になった。
山口氏は『日本書紀』にみられる広瀬大忌祭と龍田風神祭の記事を整理し上で、そこ見られた次の七点に注目した。
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- 天武四年以降、広瀬・龍田の祭りは基本的に毎年四月と七月に行われ、特に持統四年以後は欠けることない。
- 天武四年四月癸未条の初見記事にのみ、龍田社と広瀬社の立地が記載される。
- 初見記事にのみ、派遣された使者が記載される。
- 龍田では風神、広瀬では大忌神が祭られる。
- 天武八年四月己未条より、記載の順番が「龍田・広瀬」から「広瀬・龍田」になる。
- 持統紀からは「遣使者」という定型の語が入る。
- 持統六年四月より、「祭」が「祀」に変わる。
そしてれぞれの点についてあれこれと健闘。広瀬・龍田の両社が国家の意図により整備されていった過程を明らかにした。これ以上紹介するのはお読みになる楽しみを奪うことにもなるので控えさせていただくが、「へえ~なるほど。」と思うことしきり。このような結構なものを紹介していただいたこと、友人とは有り難いものだと思うこともしきり…
本来ならば、このご論文の内容も踏まえたうえで、今回の記事を成してゆくべきかとも思ったのだが、前回の記事を書き終えた段階では、おおむね今回の記事の方向性ができていた故、山口氏のお考えをここに反映させることはできなかった。私の非力のせいである。