百足らず 山田の道を 波雲の うるはし妻と 語らはず 別れし来れば 速川の 行きも知らず 衣手の かへりも知らず 馬じもの 立ちてつまづき せむすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 思ひ足らはし 魂合はば 君来ますやと 我が嘆く 八尺の嘆き 玉桙の 道来る人の 立ち留まり 何かと問はば 答へ遣る たづきを知らに さにつらふ 君が名言はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つ我を
山田の道を、波雲のようなかわいい妻とろくに語り合うこともせずに別れて来たので、川の早瀬のように、さっさと行くこともならず、かといって袖がひるがえるように帰るわけにもいかず、妻の思いにひかれて、躓く馬のように立ち上っては躓きよろめいて、どうしたらよいのかてだてもわからず、ちぢに乱れる心の思い、その思いが大地に満ち溢れるばかりに広がって…、お互いの魂さえ通じあえばあの方もいらして下さるかと私の吐く深い溜息、その溜息を、道をやって来る人が立ち留まってどうしたのかと聞いたら、どう答えてよいのやら思案もつかず、凛々しいあの方の名を口にしたら、思いが顔に出て人に知られてしまいそうなので、山から出る月を待っていると人には言って、ほんとはあの方のお越しを待っている私なのです。
(十三・3276)
眠も寝ずに 我が思ふ君は いづく辺に 今夜誰とか 待てど来まさぬ
寝るにも寝られずに私が恋い慕うあの方は、いったいどのあたりに、今夜は誰といらっしゃるのか。いくら待ってもおいでにならない。
(十三・3277)
大和川支流、米川の上流部左岸。蘇我倉山田石川麻呂が最期をとげた山田寺の寺跡がある。
ここを走る山田道は、磐余と飛鳥を結んだ約8キロの官道。つくられた時期は不明。平安時代の説話集「日本霊異記」にも「乘馬從阿倍山田前之道」と記されている。日本書紀推古天皇の16年、隋の返答使裴世清は海石榴市に到着し明日香に向うが、普通に考えれば、この際にも山田道を通っ他者と考えるのが妥当であろう。
蘇我倉山田石川麻呂は飛鳥時代の豪族。藤氏家伝によると、「剛毅果敢にして、威望亦た高し」とある。蘇我蝦夷はその伯父、入鹿は従兄弟にあたる。乙巳の変の際には …入鹿暗殺の実行が遅れたため、天皇の前で上表文を読み上げるその手が震え、冷や汗をかいているところを入鹿に見とがめられ、不審に思った入鹿に「何故か掉ひ戰く」と問われたが、石川麻呂は「天皇に近つけるを恐み、不覺にして汗流づる」と答えた…というあの話で有名な石川麻呂である。その娘、遠智娘は中大兄皇子(天智天皇)に嫁ぎ、大津皇子の母、太田皇女・後の持統天皇たる鸕野讚良皇女を産む。石川麻呂自身は謀反の疑いにより山田寺をかこまれ、自害。事のいきさつについてはちょいと読み応えあり(日本書紀大化5年3月戊辰)。最後にその物語の末尾を飾る悲歌を2首。
山川に 鴛鴦二つゐて 偶よく 偶へる妹を 誰か率にけむ
もとごとに 花は咲けども 何とかも 愛し妹がまた 咲き出来ぬ