そろそろ年賀状じまいなんてものを…

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年賀状を書く気が全く起こらない。この時期、毎年同じような思いをしている。

それでもいつもの年なら、こんな時期には年賀状はすでに購入してあり、後は大晦日までには印刷を済ませ、紅白を見ながら宛名書き正確には宛名を印刷しをし、早ければその日のうちに、遅くとも元日の朝にはポストに入れている。

けれども、今年は年賀はがきを購入すらしていない。

今年いろいろあって、新年を迎えるという実感があまりないということもあるが、実のところを言えば、そろそろ当節流行りの年賀状じまいをしてもいいのではないかという気持ちが私の中にムクムクと湧き上がって、これをおさえるのが難しくなってきたというのが大きな理由である。

そもそも、私が年賀状を書き始めたのはいつ頃なのだろうと思い返してみる。

正確には思い出せないが、おそらくは小学校の低学年の頃だったかと思う。年賀状なるものを年の初めにやり取りし、新しく迎えた年の誼を結ぶものだということを、学校だったかテレビだったかで知り、家族のものたちがそういうものをやりとりをしているのを見て、ああこういうことを年の初めにはしなければならないものだと実感したのが、その始まりだった。

近所に住む友人の数人に、「今年は年賀状書くから、君からも出してね。」なんて約束をしたものだ。そんでもって、その友人とは元旦から一緒に遊び、そこで「明けましておめでとう」と新年の挨拶を交わしていたのだから、何のための年賀状かよくわからない。

それからもう60年近く私は年賀状を書き続けてきた。その数は一時期結構な数に膨れ上がっていた。しかしながらある時期から次第に減り、昨年などは50枚は書くぞと購入しながら、結局書いたのは30枚に満たなかったように思う。いただいた枚数もしかりである。

誠に淋しいかぎりではあるが、これも私の人付き合いの狭さのなせる技であるから致し方ない。しかしながら、この調子で先細りしていって、その行き着く先を考えると、まことに忸怩たる思いが生じるのも確かである。それならばここできっぱりと年賀状なるものを書くことをやめてしまうのも一つの考えではないかと思うようになってきたのだ。とはいえ、せっかくご厚誼いただいている方々に対して正月から非礼をいたすのも何かと気がひける。それに、何よりもさびしい。

年末が近づきどうしたものかと思い悩む日々が続きとうとう今日に至ってしまった。

結論が出ないままではあるが、大晦日まではあと少しである。とりあえずの方向は定めねばならぬ。ということで、今年はとりあえず年賀状を書く枚数を極力絞ることにした。

1つ目、SNS・ブログなどでお付き合いのある方には極力そちらの方でのご挨拶のみにする。

2つ目、親戚等についてはこれもまたなるべく書かない。

3つ目、仕事上のお付き合いのみの方に対してはこれもまたなるべく書かない。

4つ目、来年もお会いする事が多い方(特に新年早々から)のもなるべく書かない。

すべての項目で、「なるべく」が繰り返されている。自分の決断力のなさにはほとほとあきれかえる次第である。むろん、年賀状のやりとりがなくなったとしても、それは互いの交流を絶ちたいというわけでは決してなく、それどころかより一層の親しいお付き合いをお願いしたいところである。

…てな事を書いていたら、妻がこんな事を言った。

今年は三輪の郵便局で三輪さんの絵を書いた年賀はがきが売っているらしいで。

そんな年賀はがきならきっとお喜びになられる方が、私が毎年年賀状を送っている方の中には少なからずいらっしゃる。早速年賀はがきを買いに行った。昨年よりやや少ない枚数を買ってきた。

少なくとも…今年は昨年とほぼ同じ枚数の年賀状を書くようになりそうだ。

※ ここでその「三輪さんの絵を書いた年賀はがき」をお示ししたいところだが、それではいただく方のお楽しみを奪ってしまいかねないので、ここでのお披露目は避けておく。

基本的な構図は上のごとしである。無論季節も違うし、参拝客の姿もそこにはない。

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