宇陀の阿騎野の11月17日(旧暦)

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今日、2024年12月17日は旧暦では11月17日である。そしてその朝、大和盆地の東の山並みを見やるとこんな光景が見えた。

今まさに上らんとする太陽が東の空を赤々と染め上げている。そして振り返って西の空を見れば・・・

ほんの10分ぐらいまではまだ明け初めぬ西のの空に明々と輝いていた月がすっかりと光を失い、虚ろな光を放っている。

ここまで書けば、我がブログの愛読者ならば(果たしてそんな方がいらっしゃるのか?)もうおわかりだと思う。

ひむかしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

柿本人麻呂がこの有名な一首を詠んだとされるのが1332年前の今日だとされたいる。もちろん私は今大和盆地東部の桜井市にいる。したがって、この歌の詠まれた宇陀市阿騎野にいるわけでもない。しかし、こんな風景を見ては…しかも、今日のこの日にである…心が1332年前の宇陀の原野を幻視しようとするのを止めることはできない。

歴史書にはないこの日のことが旧暦11月17日だとされる理由は以前書いたこれ

先日、通勤の途中にコンビニに立ち寄ったらこんなポスターが貼ってあった。 ほう、ほう・・・もうそんな季節になった…
を読んでいただきたいが、そこには原文の、

東野炎立所見而反見為者月西渡

に対して、我々がこう訓むものだと信じて疑わない上に示した訓みに、近年少なからぬ疑義が寄せられていること、そして「かぎろひ」というものの実態が実はよくわかってはいないものであるということを述べた。

今回そこに書いてあることを読み返し、一つ書くことを忘れていることに気がついた。この歌は実は単体で詠まれた歌ではなく、

軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌

やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて

安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに

ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ

という連作の一首であるのだが、そこに、「安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす」ことから、漠然と私はこの一行はたき火でもしながら野宿したのであろうし、軽皇子はまさか野宿ではないまでも、仮づくりの粗末な小屋ぐらいに泊まっていたんだろうななんて考えていた。 しかしである。私は別な場所でこんなことも書いている。

大和おいて、殆どの場所で桜はもうその盛りを過ぎた。あとは八重の桜やチラホラと咲き残った山桜が見られるのみである。だから、今更の感がないではな...
最後の方に、

おそらく、1995年の発掘の成果なのだろうが、上の案内板によれば、掘立て柱式の建物は11棟、竪穴式の建物が3棟が飛鳥時代のものとして発見されているという

と書いてある。そりゃあ確かに都の、「高照らす 日の皇子」が「 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都」の豪勢な宮には及ばないまでも、そこには未来の天皇が一夜を過ごすのにふさわしい建築物が建ち並んでいたのである。

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