「私のご先祖様」と題して2回にわたって書いた。
1回目は我が家のご先祖様が私が生まれ育った地、宮城県桃生郡鳴瀬町現在の東松島市野蒜にどのように移り住んで、何をしていたかについて。2回目が、なんでそんなことを思いついたのだろうか…なんてことだ。
いずれも今の私には調べようのないことその筋の方ならば調べようはあるとは思うのだがだからどこまで正しいことかは保証できない。あくまでばあさまやら両親やら、おじさま・おばさま方から聞いた記憶を今になって私なりに整理統合したうえでの話だ。
ところで…こうやって自らの記憶をたどってゆくうちに少々???と思わざるを得ないことに気が付いた。私が生まれ育った家…そう、
この家である。この家が建てられたのは慶応3年であるというようなことを、1回目だか、2回目だかに書いたのだが、この建物を野蒜築港のための工事やら、その後の街の繁栄やらを期待してのものだと考えると、どうしてもつじつまの合わない。なぜなら、野蒜築港の計画が東北開拓の一つのかなめとして始められたものだが、それは
政府の依頼を受けた内務省の雇技師(オランダ人土木技師のファン・ドールン)は,明治10年2月に「深水港築成の地」として「野蒜」を挙げて政府に報告し,野蒜築港事業が決定された。工事は明治11年,ファン・ドールンの指導によって始められた。
野蒜築港計画
先人たちの夢 幻の港へ思いをはせる
宮城県東松島市
「建設マネジメント技術2010年7月号」
とあるように明治も10年代に入ってからのこと。とすれば、我が家のご先祖様が野蒜村に築港工事による街の賑わいを当てにして慶応3年にこの地に遊郭を作ったなんてことはどう考えてもつじつまが合わない。まさか、慶応3年のうちにこの地への築港が計画されていてとなればそれは伊達藩によるものだよねそれを明治政府が引き継いだ…なんて考えられない。
とすると、そちらのほうを重視するならば、我が生家ができたのは明治10年代に入ってからのことで、私が聞いていたよりは10年以上後のことになる。慶応3年にはこの建物ができていたと考えるためには、もともとこの建物があって、それが大規模な築港工事を当て込んで、集まってくる人足目当てに遊郭へと転換された…と考えなければならない。私が聞いていた江戸時代の野蒜村は、飢饉のたびに数多くの餓死者を出した伊達藩随一の寒村。そんなところになんでこんな建物がという疑問が新たに生じる。
ところで、2016年8月17日 (水)、私がお付き合いいただいている玉村の源さんという方が次のような記事をアップされた。
そこに野蒜村の項があり、そこに示されている、茶屋宿屋?を営んでいる尾形何某「善作」さんらしいとかいう人物詳しくは同記事のコメントのやり取りを参照のことに何となく記憶があるのだ。むろん、会ったことがあるというわけではない。件の、ばあさまやら両親やらからあれこれ聞かされていた話の中に出てきていたような気がするのだ。我がご先祖様が始めた遊郭は、野蒜築港計画が夢と消えた後、宿屋へと業務を転換していた。そして野蒜という地において明治の昔から宿屋を営んでいた…と思われるような「尾形」という家は、我が家のご先祖様か、1,2軒ぐらいしか思い浮かばない。となれば、この「尾形何某」という方が私のご先祖様である蓋然性は高い。
かりにこの方が私のご先祖様だとすれば…
私が幼稚園の時祖父が65歳でなくなっている。其れは1966年のことだから、祖父の生まれは1901年。この時その父親私から見れば曽祖父が30歳だと仮定するとこの父親は明治初年の生まれになる。「尾形何某」さんは源さんの示してくれた資料によれば明治15年には茶屋の主人をしているわけであるから、年齢的に考えるとこの方はその父親であるから、私の高祖父である…ということになる。
あくまでも「かりに」の話である
コメント
高校の時、尾形君の家が遊郭であったことを聞き、見学に訪れたいと思ったものの自分は石巻線で通学していて尾形君の家に行くには仙石線だから全く違う方向になるのと、ふらふらしている自分と違い尾形君は野球部のエースであったので恐らくそんな時間も無かったんだろうと思います。ご先祖様の話には絶対、そこに触れるだろうと思い楽しみにしていました。
渋谷君へ
お久しぶりです。
うれしいコメントありがとうございました。ぼけ防止のために書いているブログに懐かしい人からのコメントをいただけるものとはツぞかんがえておりませんでした。ふと、高校時代の風景を思い出してしまいました。今は奈良に暮らす私ですが、数年に1度は宮城に帰り、石巻の街をふらつくことがあります。あまりに変わり果てた石巻の街ではありますが、渋谷君のコメントがあの頃の石巻の町並みを鮮やかに思い出させてくれました。今後ともよろしくお願いします。
引用してくださり、ありがとうございます。
NHKの「ファミリーヒストリー」のような感じになってきましたね。
「ファミリーヒストリー」でいつも採る手法である、戸籍を溯ることはできないでしょうか。幕末から明治初期の人物まで溯れるようですけど。
そこに尾形善作さんのお名前が見つかれば、ばっちりですよね。
私の方も、あの明治15年の道中記よりも古いもの、新しいものが出品されないものかどうか、見張ってみます。
源さんへ
源さんに無断の引用申し訳ありませんでした。
先日別の場所でとある方が自らの生い立ちを語っていらっしゃるのを読んで、ふと自分のルーツをたどってみようかという気になりました。とはいえ、記事中にも書いたように祖母やら両親やらから聞いた不確かな話をもとに書いたものですからどこまで信憑性のあるものかは保証できかねます。可能性の一つ・・・と、自分では考えています。
>戸籍を溯ることはできないでしょうか
調べてみると戸籍については150年間の保存義務があるのだそうな・・・とすれば、明治初年まではなんとかなるのかなとは思いますが、私の方にそこまでの器量かがあるかどうか・・・
まあ、その気になったときは・・・