高天彦神社を後にしたら次に向かうべきは一言主神社。ここはちょいと距離がある。距離にして5㎞弱、最低1時間は見ておかなければならない。
高天彦神社の近くには橋本院なんて寺院もあり、また来た道を下って山麓線県道30号線まで下りちょいと北に登れば極楽寺もある。いずれも、由緒正しき古刹であるが、私はまだ足を踏み入れたことがないので、今回は両寺院のホームページよりその由緒書を紹介するにとどめておく。
まず、橋本院。正式には高天寺橋本院である。
養老2年(718年)高天山登拝のためにこの地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎をたて一心に冥応し祈った。ある日のこと、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現れこの霊応に深く感じさらに修行を続け、困難と 苦悩に屈することなく祈念し続けた。人々はこの姿に高天上人と呼び尊敬した。元正天皇(715~724年)はこの功徳を仰いで、また高天の霊地たるを知り、寺地として与え、十一面観音菩薩を刻むことを許された(開基)。
当寺開山 一和僧都は、十八才の時に南都(今の興福寺)西塔院の増利僧都の弟子として仏門に入り、後に興福寺の座主に迎えられ、天歴四年(西暦九五〇年)に人皇六十二代村上天皇の勅命により維摩会(維摩経の講釈研究会)の講師となられ、学徳共に秀でたその徳望は広く諸宗に聞こえておりました。しかし、上人は名刹を厭い、専ら修行修学の為の静寂なる地を求めておられました。ある時金剛山の東麓で毎夜光を放つのを遥に望見せられた上人は奇異に思われ、その出所を探し求められました処、そこから仏頭(弥陀仏の頭)が発掘されました。仏頭は生身の仏様の様であったと申します。上人は不思議な事に驚き、これこそ有縁の地と考え、仏頭山と呼び、発掘の仏頭を本尊として草庵を結び法眼院と名付けられました。時に天歴五年(西暦九五一年)、今を去る壱千余年前の事です。
いずれも1千年を越える歴史を持つ古刹である。ぜひともご紹介いたしたいのだが、行ったことがないのだから仕方がない。
それよりも私が興味を持つのは、山麓線を極楽寺から少し北に行った場所にある極楽寺ヒビキ遺跡である。極楽寺のあるあたりから山麓線を北上することしばし。道の左手の擁壁にオレンジ色に塗られた極楽寺への道案内のあるあたりで東を向けば道の右手に木立が広がっている。その木立の向こうにこの遺跡はある。
極楽寺ヒビキ遺跡は2005年の発見である。この遺跡は5世紀代に大王天皇に並ぶ権力を誇った葛城氏の本拠地とされる奈良県御所市の南郷遺跡群の一部である。そこに、5世紀前半の大型建物跡が見つかった。以前、当時の新聞発表を見ながら以下のような文章を書いた若干修正した。
床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級。同遺跡群や奈良盆地を一望できる尾根上に位置し、敷地の周囲には濠を巡らせてある。敷地内の尾根突端では物見やぐららしい建物跡も確認。南側には渡り堤があり、塀が途切れた部分は門があったらしい。濠の中は立石が置いてあり、後の「庭園」につながる可能性もある。建物や塀はほとんどが焼失。存続期間は20~30年とみられる。遺物の出土が少なく日常生活の場の可能性は低いことから、橿原考古学研究所はこの遺跡は「葛城氏の王が祭儀や政務を行った中枢施設」との考えを示している。また毎日新聞2005年2月21日は同研究所の「一帯には王の住まいなどの施設群があったと想定され、今回の建物は『政治センター』の行政管理部門ではないか」との考えを紹介している。
葛城氏は、古墳時代の豪族で、仁徳天皇の皇后の磐之媛を出すなど、大和政権で大王の外戚として権勢を誇った一族である。日本書紀によれば、磐之媛は仁徳天皇の皇后として、履中、反正、允恭の三天皇を産んだとも言われ、仁徳から仁賢まで9代の天皇のうち8人が葛城氏出身者を妃や母としているから、まさにこの時期の政権は「大王と葛城氏の両頭政権」直木幸次郎の言葉らしいという言葉がふさわしい。
こうやって天皇家との深い結びつきで政治基盤を固めていた葛城氏であったが、王朝内の対立ことの詳細は次回に回すに巻き込まれ、雄略天皇この段階ではまだ皇子の攻撃にあい、この一族の勢力は大幅に衰えた。この時、雄略天皇と対立した眉輪王・坂合黒彦皇子の二人を匿ったとされるのが葛城円だが、日本書紀の記録によればこの事件の際に葛城円の館が焼き討ちにあったという。このたび発掘された遺跡には火災痕もあり、一連の日本書紀の記録を裏付けるような結果ともなっている。
さて、一言主神社はまだまだある。次第に車通りも激しくなってくるし、バスにでも乗りたい気分だが、そんなバスはない。やはり歩かなければならない。ゆっくりと歩いてゆくとしよう。そのうちに水越峠が見えてくる。