なんて書いたのは先々週のことである。したがって、今日はその「萬葉一日旅行」が開催されてからは一週間後である。できれば第一報ぐらいはすぐにでもと思ったが…耄碌したものである…今回のように結構な距離を歩いたりすると翌日は何もする気になれない。
ところで、この萬葉学会主催の「萬葉一日旅行」に参加するのは何年ぶりだろうかと指を折ってみた。前回私が参加したのは平城京の周辺をふらついた2019年の「萬葉一日旅行」。2020年、2021年とコロナのせいで中止になって、そんでもって去年がちょいと都合がつかずで…ということで今回は4年ぶりの参加ということになる。
その間、別の団体の主催する「万葉ウオーキング(万葉を歩く会)」という催しに2回ほど参加してはいたが、
集合時間は10時。その15分前には私は集合場所である桜井駅北口前の広場にいた。天気は良くなかったが、三輪山はご覧のようにくっきりと見えている。
集合時間となっている10時が来て、まずは学会代表の鉄野先生のご挨拶の後、本日の催しの世話人である同志社大学の垣見先生から本日の行程についてのご説明をいただく。コースはざっと、
訳語田幸玉宮の伝承地である戒重春日神社〜吉備池(吉備池廃寺跡)〜 東池尻・池之内遺跡〜 御厨子観音・御厨子神社〜履中天皇磐余稚桜宮跡〜 桜井駅の南口
てな感じで、いってみれば、古事記や日本書紀、万葉集で磐余と呼ばれている地域をぐるりと一周するコースである。
磐余についてはかつて我がブログの「桜井の萬葉 磐余」の項において、
「天ノ香久山の東北麓にかつて存在した磐余池付近から西方に及ぶ地域。大和の平野部から宇陀の山間部への入り口に位置する。」とは日本地名大辞典(角川出版。以下、地名辞典と略す)の説明。他の多くの説明によれば、奈良県桜井市南西部の池の内、橋本,阿倍から橿原市東池尻町を含む同市南東部にかけての地名とするのが一般的。
と、日本地名大辞典の記事を紹介し、さらに、
地名辞典の考えを一概に否定するものではないが、私は天の香具山の北東麓あたりをその西端とし、東端は、一般的に考えられているのよりも、もう少し東に範囲を広げて桜井市谷のあたりまでを考えた方が良さそうな気がする。すなわちその東端を寺川(倉橋川)と考え、そこから西を跡見と考えるのである。北限を横大路の前身(和田萃氏「磐余の諸宮とその時代」)とし、そこから多武峰にかけての緩やかな傾斜地を磐余と呼んだのだと思う。
と、怪しげな私見を付け加えた。
今回頂いた資料には「国史大辞典」の「磐余」についての説明がその冒頭に示されてあった。
奈良県桜井市中部から橿原市の東南部にかけて汎称した古地名。石寸・石村にもつくる。十市郡(明治二十九年(一八九六) 廃して磯城郡に入る) に磐余村の名がみえる。また天平二年(七三〇) 『大倭国正税帳』(『正倉院文書』) に 「石寸山口神戸」とあるが、これは『延喜式』神名帳の「石村山口神社」とあるものにあたる。神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦天皇=神武天皇)の名はこの地名を含み、神功皇后の磐余若 (稚) 桜宮、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮(いずれも『日本書紀』 ほか)がすべてこの地名を負っている。また『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月条に「逮我皇師之破虜也、大軍集而満於其地、因改号為磐余、或曰、天皇往嘗厳瓮粕、出軍西征、是時、磯城八十梟帥、於彼処屯聚居之(屯聚居、此云恰波瀰萎)、果与天皇大戦、遂為皇師所滅、故名之曰磐余邑」という地名起源説話をのせている。この地名説話はもちろん、各宮号、所在についてもこのまま信ずることはできないが、それにしてもこれだけ豊富な宮都伝承にはそれだけの存在理由があるはずで、それぞれについて今後の検証をまたねばならない。また『万葉集』三に「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を(下略)」の歌がみえ、天平宝字五年(七六一) 十一月二十七日の十市郡司解(『東
南院文書』)に 「十市郡池上郷」とあるので、上掲の「池辺双槻宮」の名とを併せ考えると、これらの地名は、現在の池尻・池之内のあたりに求めることができよう。
この国史大辞典の記事についての説明は、最初の目的地である戒重春日神社で行われた。
てなことで、最初の目的地に向かおう。
進行方向の右手に見える木立が最初の目的地である戒重春日神社だ。到着は出発してから20分も立っていなかったように思う。
戒重春日神社は、ご覧のようなささやかな神社である。上の写真、斜め横から撮っているために少々お社が歪んで写っているが、敷地があまりにささやかなため真正面からシャッターを押すことができなかったのである。
この神社の前を走っているのは、桜井市から明日香村に向けて抜ける際には必ず通らねばならない道である。だから、私も始終この道を使っていて、戒重春日神社には一度もお参りしたことはなかった。近すぎるゆえ、いつでも行けると思い、まだ訪ねていない…そんな場所が私にはたくさんあるのだが、ここもその一つ。興味を持ちながらも、桜井の街に住み始めて30数年、まだ一度もこのお社の前で手を合わせたことはない。
今回、萬葉学会のおかげで初めてここの神様にご挨拶することができた。感謝である。
さて、このお社の前でのレクチャーは武庫川女子大の影山先生。先生はこの神社についてお話されるとともに、先に挙げた「国史大辞典」の記述をもとに磐余についてもお話をしてくださった。概ねは上の記述に従ってのご説明ではあったが、その中の「この地名説話はもちろん、各宮号、所在についてもこのまま信ずることはできないが、それにしてもこれだけ豊富な宮都伝承にはそれだけの存在理由があるはずで、」という一節をもとに、地名説が発生するにはそれだけ重視された場所であるということを最後に付け加えられた。
名前がつけられる…そのいわれが考えられる、それなりの理由があっての営みなのである。
最後に、この境内の片隅に「歴史街道」推進協議会による説明看板があった。その記述を紹介して、次の目的地へと向かう。
敏達天皇訳語田・幸玉宮推定地敏達天皇の訳語田幸玉宮について、『扶桑略記』『帝 王編年記』はともに磐余訳語田宮とし、磐余の範囲内にあったことが確認できる。訳語田幸玉宮の所在地については、従来、桜井市太田とする説と桜井市 戒重とする二説があった。しかし、戒重村はかって 他田庄と呼ばれ、また、戒重村の小字「和佐田」(わさだ)は明治以前「他田」(おさだ)であった。そしてこの春日神社は古くは他田宮(長田宮)と称したことなどからこの地域が考えられる。
ところで先日、とある方から、
|
というご本をいただいた。著者はかつて、このブログでも紹介した、
|
|
の著者である児玉敏昭さんである。児玉さんは大学卒業後、その会社勤務の最晩年に奈良大学の文化財歴史学科において歴史学を学び、以降、精力的に出版活動をなさってきた方。今回は柿本人麻呂の「ひむかしの…」の歌に焦点を当てられ、「素人でも」と謙遜されながらも、資料を含めて全部で362pに及ぶ大著をものされた。ここに紹介いたしたい。
私自身362pというその膨大な情報量の前に慄くばかりではあるが、いつまでもそうしてはいられない。今読みかけている本が読み終われば、次は…この一冊である。
コメント
[…] 前回は、今回の萬葉一日旅行の主たるコースである磐余いわれについて、武庫川女子大の影山先生からのお話を紹介した。だが、しかしである。前回紹介したのは、このときの先生のお話のすべてではない。そのあとにも実に興味深いお話が続いた。 […]