稗田 賣太神社に行って知ったこと

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賣太めた神社について先週は書いた。前々から一度入ってみたいと思っていた場所だが、なかなか機会がなかった。そんな賣太神社にやっと尋ねるチャンスが訪れたのだ。前回の繰り返しになるので詳しくは書かないが、仕事の合間のことである。

主となるご祭神は稗田阿礼ひえだのあれ、知恵・記憶の神ということだから、ここでお祈りすることは決まっている。元々が大したものでなかったのの加えて、年齢とともにさらに衰えゆく我が脳みそを少しでも保たせていただきたい…ということしかない。

お祈りが住んで境内を出て、鳥居の前を走る道路を隔てて東西に水路が走っていることに気がついた。

そして、ちょいと東へ行く。駐車場があって私の車は北向きに止めてあったのだが、そのドライバーズシートから、今度は南北に走る水路が目に入った。

そうだそうだ、と私は思い出した…稗田といえば環濠集落だ。

環濠集落と周囲に堀をめぐらせた集落のことを言い、なんでも、水稲農耕とともに大陸からたたらされたものだというが、大和に今も残る環濠集落山辺道上の竹内・萱生、橿原市今井町などは戦国時代に乱れた治安の中、人々が自衛のために築いたものだと言われている.

ここ稗田ひえだの環濠集落もその一つである

上の写真賣太神社の境内にあった案内板から拝借したものであるが、その案内板にこの稗田環濠集落の位置について次のように書いてあった。

《稗田環濠集落》 と 《下つ道》と《橋》

古代、 大和平野には南北に通じる道が三つ造成され、下つ道、 中つ道、上つ道と称した。
稗田集落は、 この下つ道沿いにあり、 「稗田」の地名は、 『日本書紀』天武天皇元年(673)の条に記載がある。
奈良時代に入り、平城京の都城制が確立すると、 奈良盆地を南北に走る道路網が整備され、下つ道は、都の入口の羅城門から真南にのびる。

昭和51年の発掘調査の結果、 この下つ道と
当時の都市計画によって造られた佐保川の支流との交差部が稗田集落の南端で発見(稗田遺跡) された。 下つ道の幅員は16mで東側に11m、 西側に4mの運河が並行して掘られてあり、 水陸両用の幹線道路であった。政府の要人・外国からの使節・一般の人々や荷物が行き交い、 にぎわっていたことがわかった。

日本書紀天武元年云々は壬申の乱の際の

將軍吹負向乃樂至稗田之日

将軍吹負ふけひ乃樂ならに向かひ 稗田至りし日

とある部分をさすのだろう。それはともかくとして、平城の御代にあっては交通至便なけっこう賑やかな場所であったようだ。ふむふむ、勉強になるなあと思いつつ、その下にあった地図に目が行った。

「東堀川」?

平安京の堀川ならば聞いたことが無いでもないが…ちょいとgoogle先生にお聞きすると、「なんだそんな事も知らないのかお前は…不勉強だなあ。」と呆れながら

平城京東堀河 : 左京九条三坊の発掘調査

とか

平城京東市の造営と東堀川の掘削

とかいう文章があることを教えてくれた。日本書紀や続日本紀ではお目にかかったことはなかった気が付かなかっただけかもしれないがし、普通に我々が目にする平城京の地図には書き込まれたりしてはいない。ただ、全く記録に残っていなかったわけではなく、上の2つの文章ともに

庄解す、庄地の勘定 を申す事。堀河 より東に向いて行 く長 さ六丈北面、南面より東に向いて行 く長 さ七丈、堀河の広 さ二丈、堀河より西 に向いて行 く長 さ汁二丈北面、南面より西に向いて行 く長 さ汁一丈、堀河より西方の直は 貫、東方の直は廿貫。

天平勝宝八歳正月十二日

呉原伊美吉飯成
大石能歌阿古麻呂
布勢君足人
伊部造子水通

薬師院文書東西市庄解 (大 日古 4-111)東 西市

という文書を紹介してくださっているが、この読み下しは1つ目の文章に引用されているもので、実物はもちろん漢字のみの表記である(ご覧になりたい方はここをクリック)。

ともあれ、平城京にも京都の都のように掘割があったことを初めて意識した。けれども考えてみればそれは当然のことでもある。大量の物資の輸送には、船は欠かせない。平城京築造に際しては、新たな建物を築造せずに、藤原京にあったものを移築したとされている。大量の用材は、おそらく明日香川や寺川を下らせあるいはこの時期斉明天皇の「狂心渠」が残っていたかもしれない、広瀬のあたりから大和川、佐保川と遡らせたと考えられるが、

この前の週末の昼下がり、馬見丘陵の東で葛城川・高田川を合わせた曽我川が大和川にそそぐ当たり…かつて広瀬野と呼ば…
その際にこの堀川は佐保川からさらに工事の場に近いところに用材を運ぶために掘られ、活用されたに違いない。そのほか平城京ができてしまえば、都市生活を営むに必要な物資の搬入や、排水という機能を担ったと思われる。

待てよ…堀川というのならば、西の堀川もなければわざわざをつける意味がない。しかるに先に示した地図にはそんな記述はない。東堀川に対になる位置に「秋篠川(旧流路)」とあるだけである…

…と、皆さんはもうお気づきのはずである。そう、「秋篠川(旧流路)」こそが西堀川なのである。恥ずかしながら今日の今日まで秋篠川は自然の流れで、人の手が加わっているなんて思わずに来た。秋篠川も実は人の手による川であったのだ。

物資輸送や排水に活躍  みなさんもよく目にする道路を行き交うトラック、線路を駆け抜ける貨物列車、そして海を越えてやってくる飛行機や船。これらは物資を運ぶのに欠かせない輸送手段で、私たちの生活を支えています。  では、トラックや飛行機がなかった奈良時代、平城京ではどのように物資を運んだのでしょうか...
…どうりでその流れがまっすぐ南北に伸びているはずだ…

大和平野の地図を見ていると川が不自然にまっすぐ流れている場所が少なくはない。それは水の大和の人々との付き合いの歴史である。あるときには水運のため、またあるときには氾濫を防ぐため、または排水のため…等の理由で、人々は河川を付け替えた。その結果が今ある河川の姿である。

今ある河川の姿は太古のままのそれではない。その中には自然の氾濫によって生じた今の流路もあろう。けれども、人々が様々な理由によってその流れを付け替えた結果でもある。不自然なまでに真っ直ぐな流路は、やはり後者の属する場合が多いのではないかと思う。

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