次回は大島先生による大神神社、三輪山についてのお話からスタートする。
とのお約束で先週は終わっていた。したがって今日のお話は三輪山についてのお話から…
大神神社は延喜式内大社で旧官幣大社である。延喜式神名帳には大神大物主神社とある。古事記に「御諸山の上に坐す神」と呼ばれたこの山の神は、大国主神が国作りを行う際のパー トナーとして登場し、その後、「倭の青垣の東の山の上」に斎きまつられるようになった。こ の神は後に「美和の大物主神」の名称で三嶋の湟咋の娘のもとに通い、や がて神武天皇の后となる伊須気余理比売を生ませている。また崇神天皇の時代 には諸国に疫病を流行ら せ、天皇の夢に「大物主大神」としてあわられ、大 物主大神自身の五世孫となる意富多々泥古に「御諸山に意冨美和之大神を拝祭」 させている…
大島先生のお話はもっと続いたかのように記憶しているが、私の思い出せるのはここまで。さっき食べた昼食ももうお腹の中で落ち着いてきた。
さあ、あるきはじめよう…ということで大神神社。
ご存知、倭建命の思国歌。曲をつけたのはかの黛敏郎。黛氏は御存知の通りの思想傾向をお餅の方だが、学生時代軍関係へ進もうとした友人にそんなつまらんとこへは行くなと諌めた事があったらしいこと、以前の萬葉学会の一日旅行で坂本先生がお話くださっていたことを思い出した。
この場所には他にも、
なんて歌碑もある。
この神酒は 我が神酒ならず 大和なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
日本書紀 崇神天皇八年十二月
この歌には以下のような続きがあり、古代の酒宴の有り様を示す興味深いやり取りであることが坂本先生からご説明があった。
如此歌して神宮に宴す。即ち宴竟りて諸太夫等歌して曰く、
味酒 三輪の殿の 朝戸にも 出でて行かな 三輪の殿戸を
といふ。ここに天皇歌して曰く、
味酒 三輪の殿の 朝戸にも 押し開かね三 輪の殿戸を
とのたまふ。即ち神宮の戸を開きて幸行す朝戸にも 出でて行かな
諸太夫等、天皇の両歌にある「朝戸」は朝に出て行く戸のこと。だから、「朝戸にも 出でて行かな」とは、一晩中飲み続け、朝になったら戸を押し開いて出ていきましょう。」ほどの意味に取れる。とすれば天皇の歌の「押し開かね」はそれに許可を与えるものだから、要するに「一晩中飲み明かすぞ〜」と大騒ぎする諸太夫等に、天皇が「よっしゃ〜朝まで行くぞ〜」と応じたやり取りが、この一連の歌である。呑助たちの思いは崇神天皇のその昔からは変わってはいない。
そのほか、この場所で三輪山を歌ったいくつかの歌についての説明があった。
額田王の
へそかたの林の前のさ野榛の衣に付くなす目に付く吾が背
萬葉集巻一/19
この歌は、
額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
萬葉集巻一/17・18
の次に配置されており、「額田王下近江國時作歌井戸王即和歌」との題詞によれば、額田王の上の2首に対する井戸王の「和へる歌」ということになるが、どうにも和歌にふさわしくないこの歌が、なぜ額田王の2首に対する和歌になるのか…というところが、古来議論を読んでいた。これについてはどなたのお考えか忘れてしまったが、坂本先生から次のような説明があった。
この歌は神話の文脈の中で読むべき作品で、「へそかた」とはおだまきのその形を示す、「さ野榛原」の「はり」は「針」を連想させ、その下の「衣」に相まって三輪山の名前にまつわる伝承を想起させ、十分に三輪山を詠んだ歌ということになり、額田王の2首に答えている…
本当はもっと詳しく適切なお話があったような気がするのだが、私の拙い記憶は以上の通りである。