万葉ウオーキングに参加しました   4

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本当は、もっとこの初瀬川の岸辺でお話したいことがあるのだが、いつまでもここにいるわけにはいかない。思いつくことを思いつくままに書いていたら、今回の報告が終わる前に次の万葉ウオークの日がやってきてしまう。

てなことで、もう少しお話したいことがあるのだが、初瀬川にはここでおさらばをして金谷の集落へと向かう。

この金谷の地付近に、古代の位置である海柘榴市つばいちがあったと推定されている。

本来はここに原文をお示ししたいところだが、ちょいと長すぎるので先生のお話と、私のおぼつかない記憶を元に上のようにこの悲話をまとめてみた。

続いては今度は垣見先生より次にゆく金屋の石仏についてのお話を聞いた。

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金屋の石仏は以前三輪山の中腹に安置されていたらしいが、明治の初年に今の位置に移されたのだという。かの、神仏分離令の影響である。右が釈迦菩薩、左が弥勒菩薩だという。もともとは古墳の石棺の蓋だったものを利用したものなのだそうだ。制作時記事ついては諸説あり、はっきりはしないが平安初期から鎌倉期までのいずれの期間であっただろうとされている。

ちなみに、垣見先生はこの二体の石仏についてのお話を海石榴市の観音堂の前でなさっていた。海石榴市観音堂の境内はまことに狭く、この日の一行がまとまってお話を聞くには少々狭く、私はその敷地外でお話を聞く形になっていたので、実のところここでのお話を私はうまく聞き取ることができなかった。

したがって上に書いた内容は垣見先生のお話そのものではない。当日頂いた資料の記述を元に、境内の外で漏れ聞いたお話のみを参考にして書いた。だから、垣見先生のお話を正確に伝えるものではないことお断りしておく。

海石榴市観音堂から金屋の石仏までは徒歩で5分ぐらい。その風化がひどいため、現在、この2体の石仏はコンクリートでできた収蔵庫に収められている。したがって、釈迦如来と弥勒菩薩への参拝は金網越しになる。

ちなみに、この収蔵庫の下には大きな石が2つおいてある。何がしかの加工の跡があり、おそらくはどこぞの古墳の石棺かとは思われるが、詳細は定かではない。ミロク谷石棺と呼ばれるこの2つの巨石はいずれもどこから来たものかは明らかにはされていないが、そのうちの一つは珍しい阿蘇ピンク石製で、5世紀末頃のものと思われている。阿蘇産の石ということから、なんで、そんなとこの石が大和にあるんだろうなどと、当時のヤマト政権とと州の勢力との関係に思いをはせながら、収蔵庫の下を覗き込む。そして…周りの皆さん方も…

さあ、次は志貴しきの御県みあがたにいます神社である。

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