さて、この後お話は脇本遺跡について、そして泊瀬という地についてのお話が続くのだが、今日は少々話が長くなってきた。春日神社でのお話の紹介はまだ途中であるが、続きはこの次ということで今日はキーボードを置くことにする。
なんて形で前回の記事を終えたが、もうお話を聞いて3週間も経つ。そろそろ記憶が曖昧になってきて、そろそろ、こどこからどこまでがお聞きした内容なのか、あるいは自分の勝手な思い込みなのか曖昧になってきた。だいたい、それぞれのお話がどの先生からお聞きしたものであるかさえ怪しくなってきた。
あんまりいい加減なことをさも先生方のうちのどなたかのお話として書けば、せっかくお話をしてくださった先生方にご迷惑をおかけすることにもなるおそれがある。したがってここから以降の内容は、先生方から聞いたお話をうろ覚えしている私が、自らのあやしい知識と区別する事ができないまま書いたものであることをしっかりと理解したうえで読んでいただきない。だから、あまりにも「???」てなことがあれば、その責めが私にあることは言うまでもない。
さて脇本遺跡についてであるが、いただいた資料には脇本遺跡について産経新聞(2007年2月16日)の記事が示されていた。
奈良県桜井市の脇本遺跡で、弥生時代末期から古墳時代初頭 (二世紀末〜三世紀初め)の銅鐸の破片や青銅器の鋳型が見つかり、県立橿原考古学研究所が六日、発表した。弥生時代の祭祀に使われた銅鐸を、古墳時代になって壊し、別の青銅器にリサイクルした工房跡とみられるという。古墳時代の新しい王権が弥生祭祀のシンボルである銅鐸を意図的に破壊したともみられ、時代の激変期を物語る興味深い資料になりそうだ。
続いて、
弥生時代の銅鐸は完全な形のまま地中に埋められたケースが多く、破片の状態で出土した今回のケースは、古墳時代になって意図的に破壊された可能性が高いという。
とその根拠となる考えを示したうえで、現桜井市纒向学研究センター長の寺沢薫先生の、
古墳時代に誕生した新しい王権が、弥生時代の銅鐸祭祀を終わらせ、役目を終えた銅鐸を新しい青銅製品の材料として使ったのではないか
とのお話を紹介している。
更に当記事は、この基本調査の結果、脇本から慈恩寺にかけての一帯が、雄略天皇の泊瀬朝倉宮ではないかとの推定のもとに発掘調査をすすめ、朝倉小学校校庭・その西南の灯明田地区、またその東側の苗田地区に発掘調査を範囲が拡大した。そして、
こうした発掘調査の結果を総合的に判断して、脇本遺跡の五世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物の可能性が非常に高いと見なされた。
と記事は結んでいる。
これらの発掘は更に進められ2012年、ついに、
の発見に至る。2012年9月のことである。
おそらくは雄略天皇の泊瀬朝倉宮の周囲にめぐらされていた空堀の跡とみなされる石垣がここで発見された。このときの遺跡説明会について親切にもブログにて報告してくださっているのを発見したので紹介しておこう。
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