海石榴市

シェアする

はじめにお断り

「桜井の万葉」ブログ上部のボタンから入ってくださいの項目を一つ増やしておきたいと思って書き始めた今回の記事であるが、以前、一度皆さんにお示ししたものである。以前書いたときから、不勉強な私も幾分かは新たな知見を得たという思いもある。そして前に書いたものを見直し、手を加えたものを新たに皆さんに示ししようとしていた。

ところが、そんな作業をしているうちに、この「海石榴市」の位置について諸説あることを知った。私のようなものであっても古代の地名の所在について色々とあることを知っている。この「海石榴市」についても、古代においての泊瀬川の流路は今よりも南であったとされる2004年の桜井市立埋蔵文化財センターの報告ことから、海石榴市も今の金谷よりはもう少し南にあったか、あるいはその範囲が南に広がっていたかとも考えたほうが良いのではないか…ぐらいにはおもっていた…が、今まで自分が知り得なかった多様な考えが示されていることを今回始めて知り、改めて自分の不勉強の加減を知った。

とはいえ、それらの考えにすべて目を通し、皆さんに説明できるまでにはもう少し時間がかかりそうである。よって、今回はとりあえず、桜井市や奈良県のホームページに示されているそして現在多くで語られている「海石榴市」を桜井市金谷付近とする説に基づき書いたものを皆さんにお届けすることにする。

むろん、これはあくまでも、「とりあえず」であり、いずれは諸説を整理したうえで私なりに最も納得できる形のものを皆さんにお示ししたいとは思っている。


海石榴市つばきち

海石榴市つばきちの 八十やそちまたに 立ちならし  結びしひもを 解かまく惜しも

海石榴市のいくつにも分かれる辻に立って、広場を踏みつけ踏みつけして躍った時に結び合った紐、この紐を解くのは惜しくてならない。

 作者不詳(十二・2951)

問答歌

紫は 灰さすものそ 海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)(ちまた)に 逢へる()(たれ)

紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。

作者不詳(十二・3101)

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行き人を (たれ)と知りてか

母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してもよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申しあげたらよいのでしょうか。

作者不詳(十二・3102)

右の二首


海石榴市

三輪山の麓が金谷

三輪山の麓が金谷

現在の桜井市金屋付近にあったとされる古代の市。軽市かるのいち餌香市えがのいちなどとともに三市とよばれ、『日本書紀』に「海柘榴市の巷」「海石榴市の亭」、『万葉集』にも「海石榴市の八十の衢」とみえる。

万葉集の時代には「つばきち」と呼ばれていたと推定されているが、現在はこれを「つばいち」と訓んでいる※1三輪みわ山の西南、初瀬はせ谷の西の入口に位置し、大和盆地を北に向かう山辺の道・上ツ道、南は明日香に向かう山田道、西は伊勢へと抜けるはつ道、そして大和盆地を東西に縦断する横大路など、古代大和における重要路が交わるところであった。このようにいくつもの道が交差するところから「八十やそちまた」との呼ばれていた。また、 初瀬はせ川による水上交通もこの辺りを起点としており、水陸の交通の要衝であった。

冬十月に百済の聖明王、西部せいほう姫氏きし達率だちそち怒唎斯致ぬりしちけい等を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋はたきぬがさ若干、経論若干巻をたてまつ

とは日本書紀(欽明天皇十三年)の記事であるが、世にいうところの仏教公伝を記したものとして有名な記事である。この欽明天皇の磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみやが、海石榴市の東南のほど近い場所(現在の桜井市水道局の敷地内に「磯城島金刺宮推定地」の碑がある)に推定されている以上、「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」はこの近辺の地において船より降ろされたはずだ。とすれば、釈迦仏金銅の像が我が国の大地を初めて踏みしめたのは海石榴市・・・ということになる。

様々な道が交差したこのような場所は人が集うばかりでなく、言霊や精霊までもが集まりやすい場所であった。したがって祭祀も行われることもしばしばあったと考えられ、そのため聖なる樹木として海柘榴つばき(「椿」の漢語的表記)が植えられていたのが地名の由来となったと考えられる。椿が聖なる樹木として認識されていたのは、冬にも葉を落とさない常緑樹であるがためであろう。古代人はそこに永遠の生命を感じ取っていたのだ。

なお、そこが物流の拠点である以上は人も集まってくる。必然的に男女の出会いも多くあっただろうと推定される。歌垣うたがき※2なども多く開催されたのであろう。海石榴市を詠んだ歌はいずれも歌垣にかかわってのものと思われるものばかりである。また日本書紀武烈天皇即位前期にも、海石榴市の歌垣のことが描かれているが・・・それは、あまりに悲しい影姫の物語※3である。


※1

海石榴市をそのまま読めば「tubakiiti」となるが、下線部のように母音が連続した際にはいずれかの母音が脱落するのが古代日本語においてはよくみられる傾向である。また元興寺縁起にも「將三尼等至都波岐市つばきち長屋時」とあることから、古代においては「tubakiti」と訓まれていたことが考えられる。

現在のようにな「tubaiti」という訓みは、おそらく、「つばち」の音便形(イ音便)として派生した訓みであろう。また、「海石榴市」の「市」という文字にひきずられた訓みだとも考えられる。

※2

歌の掛け合いに基づく行事で、男女の出会いや求婚の場。古代の日本列島に広く存在したものと思われ、風土記や万葉集に山や水辺、市などで行われた歌垣の記録が見られる。持統朝には中国から踏歌が伝わり宮廷の行事として行われた。さらには続日本紀天平6(734)年2月には歌垣と呼ばれて、貴族の男女が列をなし歌ったとある。また、同じく続日本紀宝亀元(770)年3月にも歌垣とあり、男女が並んで歌舞したという記録が残る。時代別国語大辞典上代編には「一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った」とある。

※3

武烈天皇が皇太子だった時ころ、大臣平群真鳥へぐりのまとりが強大な勢力を誇っていた。真鳥は国政をほしいままにし、数々の無礼をはたらいていた。そんなある日、皇太子は物部麁鹿火もののべのあらかびの息女影媛を娶ろうとした。仲立ちを建てて皇太子は影媛にあたりをつけようとした。が、影媛はすでに真鳥の息子しびと関係を為していた。影媛が「海石榴市つばきち(現桜井市金屋付近)の巷でお待ちします」と返事をしたので、皇太子は海石榴市におもむく。市ではちょうど歌垣が行われており、皇太子は影媛の袖をとらえ、誘いかけるが、そこに鮪がやって来る。そして二人の間に割って入って来たので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪と歌を応酬を行う。皇太子は鮪の歌により、鮪がすでに影媛と関係を持っていたことを知り、顔を赤くして怒る。その夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村はその相談を受け、数千の兵を率い平群を急襲し、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで出向き、鮪の最後を見届ける。驚き混乱した影姫の目には涙があふれたという。

石上いすのかみ 布留ふるを過ぎて 薦枕こもまくら 高橋たかはし過ぎ 物さはに 大宅おほや過ぎ 春日はるひ 春日かすがを過ぎ 嬬籠つまごもる 小佐保をさほを過ぎ 玉笥たまけには いひさへ盛り 玉椀たまもひに 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛かげひめあはれ

布留を過ぎて、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、佐保を過ぎ、お供えの美しい食器にはご飯まで盛り、美しいお椀には水さえも盛って、泣き濡れて行くのだ。影媛、ああ可哀相に。

日本書紀 武烈天皇

シェアする

フォローする