藤原宮大極殿跡である。この場所で藤原京についてのM田先生のお話を聞く。
藤原京は694年から710年の平城遷都までの16年間、この国の都城であった場所。その中核である藤原宮は、その後の変遷でどこにあるかはすっかりわからない状態になっていたが、そのおおよその位置は、万葉集巻一の「藤原宮御井歌」によってある程度予想されていた。
大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に…
万葉集巻一/52
「日の経」とは 東のこと、「日の緯」は西、「背面」は北。そしてそれぞれの場所に畝傍山・天の香具山・耳成山が位置するような場所は…ということでこの1934年から藤原宮の発掘調査が始まった。
日本古文化研究所によるこの調査は10年にわたり行われ、橿原市高殿町旧鴨君村高殿にある大宮土壇がその大極殿の跡であることが判明し、その南側には朝堂院・朝集殿などのいくつもの施設跡が発見された。
藤原宮の大極殿は、江戸時代あたりからそうではないかとの論説賀茂真淵がなされていたが、大正時代に入って、喜田貞吉による「長谷田土壇」説が登場する。大宮土壇から700mほど北西に行った長谷田土壇こそが大極殿の一にふさわしいというのである。その根拠となるのは、大宮土壇を大極殿とすると東に偏りすぎていて、藤原京の条坊のかなりの部分が香具山にかかってしまうと言うのであるこのことが大宮土壇大極殿説を否定する根拠とはなり得ないこと後述する。
かような状況にあって、上記の日本古文化研究所の調査結果は貴重であった。
ところで私が古代史に興味を持ち始めた頃、藤原京の京域は大和三山の内側に収まる程度のものであると想像されていた。その様式は、12条8坊の東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、宮もその北寄りに位置すると考えられていた小藤原京説。
てな具合に考えたとき、「京域は大和三山の内側に収まる程度」と考えた場合、大宮土壇では、その京域の東端が香具山にかかって具合が悪い…というのが、喜田貞吉による「長谷田土壇」説であるが、1900年代も終わりに近づいたころ、都の東端が香具山にかかってしまう…なんて、どうでも良くなるような発見がなされた。
簡単に言うと、その後かつての藤原京の京域の外でも様々な発見があり、最終的には橿原市土橋町において南北に走る直線路から東に向って走る直線路が発見された。十字路ではなくT字路である。すなわち、西向きにはそこで道が終わっているということである。つまり、都はここまでということになる。
この、ここが西の京極ではないかとの推測の下、そこを西の京極とした場合に推定される東の京極を発掘した結果、同じようにそこが京極と推定されるような道の交差が発見された。東の京極である。
こうして、藤原京の京域の東西が明らかになった。藤原京は以前思われていたよりも遥かに大きかったのである。5.3km四方の正方形…平安京を上回る巨大な都がそこにあったのだ。大極殿を中心とした藤原宮はその中央に位置する。南北に長い長方形の北辺に中枢部を置く後の都城と一線を画したこの構造は周礼に基づいていると聞く。
このように考えたとき、畝傍山も耳成山もその京域に入ってしまうことになるので、香具山だけが京域にかかってしまうことは逆に気にならなくなる。
どこまでがM田先生のお話で、どこまでが私のいい加減な知識に基づいてのものなのか、お話を聞いてから一月半も経ってしまっているので定かではないが、この場所ではだいたいこんなお話を聞いた。
そして次に向ったのがここ。
橿原市の藤原京資料室である。この農協に2階にある展示コーナーでは、約6m×7mもの大きさの藤原京の1,000分の1模型これは見ものだよや、柱や瓦といった出土品を展示している。また、当時の藤原京の様子を詳しく再現したCGや、藤原京に関するアニメーション何かが楽しめたりもする。無料だし、結構楽しめる。
大極殿からは歩いて5分ほど。結構暑い日だったから、冷房の効いたこのような施設に入るのは休憩も兼ねてのことである。
休憩も終わり、次は今日最後の目的地である八木札の辻交流館である。札の辻とは、いわゆる固有の名詞ではなく、高札が建てられたような往来や宿場の交差点を意味している。これからゆくその辻は古代の主要道である下ツ道と横大路が交差する辻である。八木札の辻交流館まで、藤原京資料館からは30分弱。そこで解散だ。
だがその途中私が帰りの電車に乗るべき畝傍駅がある。最後までお付き合いすると、またここまで戻ってこなければならない。暑い日でもあったし、私はちょいと考えた。時間も時間だし、解散予定の大和八木駅という立地を考えれば、そのあとにちょいと一杯…てなこともあるかもしれない。
「そういえば、さっきM田先生が、あんまり早く着きすぎると私達はちょいと困ることになる…なんてことをおっしゃっていたような気がするなあ。あれはきっとあんまり早く解散すると飲み屋の開店時間に、間が空いてしまうからじゃあないのか…」なんてことを考えもしたが、その日私は夕刻に外すことのできぬ用事が入っていた。
だから解散の後にビールをちょいと一杯なんてことがあったとしてもどうせ参加できなかった。
ということで、一行のルートが最も畝傍駅に近づいたとき、私は「私はここで失礼します。」とM田先生に告げ、畝傍の駅に向かった。