2024年萬葉学会1日旅行 その5

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畝尾都多本うねおつたもと神社でちゃあ〜んと「神酒」が「据ゑ」てあることを確認したあと、私達は奈良文化財研究所藤原宮跡資料室のところから真っすぐ伸びる細い道を西に向かう。


そして写真の中央からやや左下の「P」駐車場だよねと書いているあたりから北に向かい、たどり着いたのが、上の航空写真でいうと緑の文字で「藤原京跡遺跡」と書いている、「跡」の字と、「遺」の時のあいだくらいの場所。そこで一同は南の方角を見る。

以前、

前回は後半の部分でずいぶんと怪しげなことを申し上げたが、その怪しげな部分を補強するような写真から今回は始めたい。 前回の記事で西塔...
で紹介した朱雀大路の方角である。小さくはなっているが、日高山の切り通しがここでも確認できる。そんでもって、その日高山の手前に小さくポツポツとしたものが気になる人はこの写真をぜひ拡大していただきたい。かつてあった施設の柱跡に朱い柱を模したモニュメントを確認できることだろう。朝堂院南門跡である。朝堂院とは、大内裏の正庁で、本来は、八省の官人が政務を執り、天皇が臨御して親裁する、朝政の場であった。次第に即位、朝賀など、国儀大礼を行なうだけとなったがこのあたりは日国の記事を参考にして書いている、ようは国政の中心となる場である。今から1340年ほど前、ここが国政の中心であったのである。

そしてこの場所からほんの僅かに北にゆくと、ここにもかつての柱跡に、朱い円柱状のモニュメントが並んでいる。大極殿門跡である。ということは…

柱跡の向こうに見えるこんもりとした茂みが大極殿ということになる。まさか、

これほどの規模ではなかろうが、これに類する建物がこの場所にあったことになる。

そしてこの場所から東…やや南寄りを見ると…

天の香具山である。M田先生のお話によれば、この山の麓に高市皇子の邸宅があったのだそうな。出勤場所がほど近い…当時のお役人としては一等地にその邸宅があるのは高市皇子の太政大臣という政治的な立場を物語るものなのだという。

ちなみに…としてM田先生が続けて言うには、平城宮にあって大極殿から見て同じような位置にその邸宅を有していたのは長屋王であった。 長屋王は高市王子の長男で、やはりその職は太政大臣。宜なるかなである。

そして私達はほんの少し移動してさっきのこんもりとした茂みに移動する。

大極殿跡である。

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