藤原京の朱雀大路を超えた私達はさらに東へと向かう。
眼の前に見えるのは天の香具山。言わずと知れた大和三山のうちの一つである。百人一首の持統天皇の御詠はいまさら紹介する必要もないほど人口に膾炙している。ただ、その山容は決して優雅なものとは言えず、ご覧のように、たとえは悪いがスライムを床に落としてしばらくほおっておいたときのような形の山で、それほどの高度があるわけでもない。初めてこの山を見て、「これがあの有名な天香久山…」とがっかりなさる方も少なくないとも聞く。
この、「山」と呼ぶことが躊躇されるほどの…そんでもって、今はその山を南北に貫く自動車道も走っているような山であるが…
かつては、天から下ってきたなんてお話があったり、
天下を揺るがす大事の際に、この山の肩の骨を抜いて、この山の「波波迦」の木で焼いて占ったり、
その後にこの山の榊を捧げ持って祝詞を唱えたり、
そんでもってそこで女神がこの山の日影蔓をたすきにして、この山の小竹を手に取り持って裸踊りを踊ったりした山である。
極めて神聖な山であったのだ。
畝傍山、耳成山がいわゆる単独峰であるに対し、この天の香具山は吉野の方から続く山裾侵食により切り離されたであることが、その神聖な力の所以であるという。あるいは藤原宮の東に当たるこの山は、いわば「日出る山」。太陽へに崇拝がこの山の山に対する信仰の源であるという話も聞く。
だからこそこの山を持統天皇は歌に詠んだのであるし、そのお祖父様に当たる舒明天皇もこの山から国見をなさったのだ万葉集一/2。
香具山へあと少しというところで、これまでまっすぐ東に向かっていた進路を北に変える。そしてほどなく、私達がたどり着いたのはここ。
5月の初旬から中旬にかけての頃とはいえ、結構な暑さの中を歩いてきた私達にはありがたい日陰での休憩である。まずは、近くにあった自動販売機でジュースを買い水分の補給をする。そんで待って施設の中に入る。うれしいことに冷房が入っていた。
貴重な展示物を鑑賞しながらの休息を終えた私達は次の目的地へ向かう。
畝尾都多本神社である。まずは当日の資料の引用から…
啼沢の杜に鎮座。旧村社。祭神啼沢女神は「古事記」 神代巻に「故、伊邪那美神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避り坐しき。(中略)故爾に伊邪那岐命詔りたまひしく、 「愛しき我が那邇妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」と謂りたまひて、乃ち御枕方に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐して、泣沢女神と名づく」 とみえる泣沢女神とされる(大和志)。この神の性格は不明であるが、泣女は喪主に代わって泣き悲しむものをいう。 高市郡遊部郷における遊部の祖神を祀った神社であろうか。遊部は「令集解」喪葬令によると、鎮魂・ト兆に関係した。 持統天皇一〇年(六九六) 高市皇子の殯宮の時、檜隈女王がこの神社を怨んで「哭沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご王は高日知らしぬ」と詠んでいることから(「万葉集」巻二)、命乞の神とみる説もある(古事記伝)。
日本歴史大系の記事である。文中の古事記伝の引用するところの歌に出てくる檜隈女王であるが、高市皇子の妻とも娘とも言われているが詳しくはわからない。続日本紀の天平9年の2月にその名が見えるが、ここの檜隈女王と同一人かどうかはわからない。仮に同一人だとすれば、年齢的に考えて娘だと考えたほうが蓋然性は高い。当日の資料に記してあった私のわけのわからないメモに「娘」と書いてあったから、M先生は檜隈女王を高市皇子の娘であるとする説をお話になったのではないかと思うもう一月も経つので記憶があやふやになってきている。
奈文研藤原宮跡資料室を出て、ちょいと北に歩く。
1分も歩かないうちに…というよりは、資料室の殆どとなりに、大きくはないが、結構鬱蒼とした木立がある。そこが畝尾都多本神社だ。詳細は上の日本歴史大系の説明に尽きる。
檜隈女王の一首である。
哭沢の 神社に神酒すゑ 祷祈れども わご王は 高日知らしぬ
右の一首は、類聚歌林に曰はく「檜隈女王の、泣沢神社を怨むる歌」といへり。日本紀を案ふるに云はく「十年丙申の秋七月辛丑の朔の庚戌に、後皇子尊薨りましぬ」といへり。
万葉集巻二/202
そして哭沢の神社。
鈴の下の方や、灯籠の下の方を拡大してよ〜く見ていただきたい。
ちゃあ〜んと「神酒」が「据ゑ」てある。