吉隠

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私は奈良県の桜井市から、隣に位置する宇陀市に毎日のように通勤している。

経路は二通り。大阪市と津市を結ぶ国道165号線と羽曳野市と松阪市を結ぶ166号線がある。以前はその日によって道を変えたりしていたが、最近は165号線を使うことがほとんどになってきた。宇陀市は低いところでも300m以上の標高があるので、毎朝の通勤には結構な峠道を超えなければならない。西峠と呼ばれている峠道だ。かつては墨坂と呼ばれていた…と書くと、ピ〜ンと来る方もいらっしゃるかと思うが、その「ピ〜ン」と来たことは、たぶん正解である。神武紀に出てくる、「あれ」である。

そして…その長い急峻な坂道の途中にあるのが、この吉隠の地である。

「吉隠」という字面を見ても、これを「よなばり」とはお読みになれない方が多いのではないかと思うが、これは至極当然で、桜井市近辺に暮らしていなければ奈良に住んでいても読めないという方が多いのではないかと思う。

「吉」を「よ」と読むことはそんなに難しいことではないが、「隠」の文字がどうして「なばり」読めるのか、これはちょいと難しい。これは「隠れる」という意味の「なまる・なばる」という古語から来ているらしい。

宵に逢ひて 朝面無み なばり(名張)にか 日長く妹が 廬りせりけむ

長皇子 万葉集巻一・60

なんて例が万葉集には見える。

三輪から出雲を通って、初瀬泊瀬に向かって車を走らせる。初瀬に抜けたあたりから道は次第に高度をましてくる。道は左手に山が迫り、右側には結構な傾斜面に美しい棚田が広がっている。「吉隠」との標識のある交差点が見えてくる。そしてそこから左手に登ってゆく道を曲がると、山手へと伸びる細い道に従ってまばらな集落が見える。

吉隠の里である。

万葉集には次の5首にその地名を残している。

但馬たじま皇女の薨じて後に穂積ほづみ皇子、冬の日雪の降るに、御墓を遙かに望み、 悲傷流涕して作らす御歌一首

降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養ゐかひの岡の 寒からまくに

(二・203)

大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめ跡見とみの田庄にして作る歌(二首のうち一首)

吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ

(八・1561)

我がかどの 浅茅色付く 吉隠の 浪柴の野の 黄葉もみち散るらし

(十・2190)

黄葉もみちばを詠む(四十一首のうちの二首)

我がやどの 浅茅あさぢ色付く 吉隠の 夏見なつみの上に しぐれ降るらし

(十・2207)

雪に寄する(十二首のうちの一首)

吉隠よなばりの 野木に降りおほふ 白雪の  いちしろくしも 恋ひむ我かも

(十・2339)

中でも知られているのが、一番上に示した、「但馬たじま皇女の薨じて後に穂積ほづみ皇子、冬の日雪の降るに、御墓を遙かに望み、 悲傷流涕して作らす御歌一首」であろう。若い頃にこの二人の間にあったあれこれは万葉集内でも屈指のスキャンダルではあるが、この1首は708年に但馬皇女が世を去った、その冬に詠まれたものと思われる。

同じ穂積皇子がその晩年に詠んだ、

穂積親王御歌一首

家にありし 戸棚ひつに鍵刺し あさめてし 恋の奴の つかみかかりて

右歌一首穂積親王宴飲之日酒酣之時好誦斯歌以為恒賞也。
右の歌一首は、穂積親王の、宴飲の日に、酒酔ったたけなはなる時に、好みてこの歌を誦みて、以ちて恒の賞と為したまひき。

万葉集 巻十六・3816

とあわせて読んだとき、まことに味わい深いものがある。

そしてさらに味わい深いのは大伴坂上郎女の歌(八・1561。大伴坂上郎女は大伴旅人の妹で、万葉集の編者とももくされる、大伴家持のおばであり義母でもある。若い頃穂積皇子に嫁ぎ、程なく死別する715年。歌人としても知られる坂上郎女であるから、但馬皇女と穂積皇子との若い頃のあれこれを知らなかったことはなかろう。いや、ひょっとしたら穂積皇子本人から、事の詳細を聞いていたのかもしてない。

八・1561の歌が詠まれたのはそれからずっと後のこと。彼女は今吉隠に近い「跡見の田庄」にいる。聞こえてきたのは「猪養の山」の鹿の妻問いの声である。そこに眠っているのが但馬皇女であるとするならば、その皇女を恋うて泣いているのは誰か…

…ちょいと興味深い。

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

    「シア・シェン」と「カバー」については次回でしょうか?

    • sanpendo より:

      源さんへ

      お教えありがとうございます。
      訂正いたしました。
      それにしても…確認不足とはいえ、思ってもみない誤変換。
      別の所にテキストとして打っていたものをコピペして貼り付けただけなんですが・・・ 
      「覆ふ」が「カバー」になっているのが気になります。

      • 玉村の源さん より:

        誤変換でしたか。
        それはびっくりです。
        通常の誤変換のパターンに収まらず、想像を超えます。

        • sanpendo より:

          源さんへ
          それに、

          本当に謎の誤変換です。

          「覆ふ」が「カバー」になっているのを考えると英語の勝手に変換したのかもしれませんが、なぜそんな事になったのか不思議ですし、勝手に英語に変換したのだとしてもそれがなぜカタカナなのかも不思議です。
          それに「シア・シェン」というのが一体何なのかも謎です。