2021年1月16日、以下のような記事を皆さんにご披露した。
そして、この2021年、私が読もういや、ページをめくるぞと皆様の前で公言した書物は、伊藤博「先生」をつけたいよねの万葉集釋注だった。
今にして思えばだいそれた事を言ってしまったなと後悔している。というよりは、言ってしまった直後から後悔している。たまたま、今すぐ手元にあるその第10巻。パラパラとめくっただけでも800ページを越えている。かりに、これをその平均値として考えたならば、その時私が自らに課した課題は8000ページをめくる決して読むとは言えないという作業。
一度皆様の前で偉そうに公言した以上は、この作業は最後まで遂行されなければならない…なんてことはないのだが、「過則勿憚改」という論語の教えにも従うことはなく、私は自らに課した試練に立ち向かったかっこいいでしょう(笑)。
しかし、その歩みや遅々たるもの…翌年の2022年の「今年の目標は?」では、その全体の半分にも及ばない第4巻途中までの報告しかできなかった。そして、今年、2023年は「今年の目標は?」は書いてすらいない。まだ。前々年からの目標が達成されていなかったからだ。
だが、この6月の中頃、やっとその目標は達成された。本当は、このことをその時ご報告するべきであったと思うのだが、「萬葉一日旅行」の報告が続いていたのでそちらを優先して、一昨年の目標達成の報告が今日になってしまった。
とはいえ、そのめくったページの分だけ私が賢くなったわけではない。あくまでページをめくっただけなのだから…
そして今私の手元にあるのは2冊の講談社学術新書。1冊目は…
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「日本」という国号がいかにして生じて来たか、やはり興味あるテーマではある。自分なりにも考えてはきた。だから、書店でその背表紙を見た時に、不勉強な私でさえ学生の頃からその名を存じ上げていたこの先生が「日本」という国号をどのように考えていらっしゃるのか…私にはまことに興味深いものであった。
まだ、1ページもめくっていないのでどのようなことが書いてあるのか全くわからない。実は来週末、ちょいと入院をする。 1泊すれば帰って来られる程度の入院だから大したことはない。この本は、その1泊2日の間の楽しみとしておいてあるのである。
続いてはこれ…
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宇治谷孟氏の日本紀の全現代語訳である。現在、私の手元にある続日本紀は国史大系のものと岩波の新日本古典大系のもの。いずれも、口語訳はついてはいない。 岩波のものには懇切な頭注がついてあるし、補注も厳密である。けれども、それは口語訳ではない。私のような無学なものは、時々、口語訳を頼りにしたくなる時がある。だから、この現代語訳は書店で見るたびにちょいと気になってはいた。
宇治谷孟氏のこの仕事は、氏が早稲田大学に在学中、そこで教鞭をとっていた窪田空穂の講義中の、「日本の歴史を普通の人にも正しく理解してもらうために、『日本書紀』や『続日本記』を易しい現代語訳に訳したいが、自分にはその時間がない。自分のクラスから、意志を受け継ぐ人が出てくれれば嬉しい」という言葉が契機になってのものだという。
大変な労作であると思う。しかしながら、私とて、少々はこの時代の文章を少しはかじった事がある。他人が施した口語訳をそのまんますんなりと受け入れることにが抵抗がある。しかも、宇治谷氏のこの著作は、本当に現代語訳のみのものである。原文も語注もない。「だから」と続けて良いものかどうか迷うのだが、著者がどのような思考の過程でその現代語訳にたどり着いたのか、知る由がない。そのあたりがちょいと不安で、かなり以前から気にかかっていたこの著作を手に入れることなく過ぎてきた。
しかしながら、このときこの本を購入したときはちょいと違っていた。
なあに、手元にある国史大系と岩波と…そんでもってウェブ上においては朝日新聞社蔵のものだって見ることができるじゃないか。口語訳に「?」となったときは、それらをパラパラとめくって確かめたらいいじゃあないか…
そのぐらいの気持ちになっていた。
結果、上中下ある中の上だけが今私の枕元にある。塩梅が良ければ、残りを購入し読み進めようという算段である。
以降、今年の目標として、この現代語訳を読んでいくことになると思う。今、私に手の中にあるのは、その上巻のみであるが、順次中巻・下巻と買い揃えてゆくようになればううなと思っている。
ところで、上に6月の中頃に万葉集釋注を読み終えたと述べた。そして、上に紹介した2冊を購入したのも、若干のタイムラグはあるが、ほぼ同じ頃である。けれども、この2冊、いずれもこれからの楽しみであるとも述べた。
となると…今日は、もうすでに7月の半ば、このひと月はどうしてきたんだということになる…
何も読んでなかったわけではない。ただ、万葉集釋注を読み終えたとき、まだこの2冊の講談社学術文庫はまだ私の枕元にはなかった。
めっきり本というものに触れる時間が少なくなった私ではあるが、かといって、全く文字に触れることもなく眠りにつくことはできない。何か読むものはないか…と手に取ったのが
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である。
以前も一度紹介したものであるが…ということは、一度は読んだことのあるものなのだが、一度読んだことがあるということと、その本の中身が理解できているということは同義語ではないと信じている私のようなものにとって、数年前に読んだという事実はあくまで「読んだ」という事実のみである。
だから、一度読んだことのあるこの著作も、前に読んでから数年もたった今読み返せば、初めて読むような気持ちで読み返すことができる。一度読んだことがあるということと、その本の中身が理解できているということは同義語ではないと固く信じる私の特権である。
1冊の本を何度も繰り返し新鮮な気持ちで読むことができる。
この1冊の説くところ、平城遷都にあって、藤原京へと付き従った人々の住宅地は自らその地権者より購入したものなのか、あるいは公から給付されたものなのか・立地の良いところに住むものが必ずしも高貴の極みにあるものばかりではないのはなぜか・大伴氏の集住についてなど興味深いことばかり。特に興味深かったのは…以下の記述。
著者は藤原京と平城京の宅地を比較した上で次のように書いている。
長屋王邸が見つかったとき、なぜ従三位であった長屋王が宮前面の一等地を得たのかという疑問に対し、藤原宮の位置と高市皇子の香具山宮の位置関係を踏襲した可能性が指摘された
「平城京の住宅事情」 p204
高市皇子は長屋王の父。親子ともに宮の南東に邸宅を構えているという位置関係の類似があるというのだ。更には藤原不比等の住居。平城京の彼の住居は宮の北東部にあったこと知られているが、藤原京にあっても、藤原宮東面北門付近にその住居を構えていた可能性がしてされているとし、さらに、穂積皇子の邸宅も藤原京にあっては不比等の住居のほど近く…ということは高市皇子の邸宅のすぐ北ということになる穂積皇子と但馬皇女のスキャンダルを知っている者にとってはこの住宅の位置関係がとても気になるが、ここでは先に進む。平城京における穂積皇子の邸宅については鹿と確認できていないらしいが、仮に穂積皇子と大伴坂上郎女との皇子、今城王が大原今城だとすれば今城王は後に大原真人の姓を賜っている、また彼の住所も不比等の住居のほど近くに位置しているのだという…
なるほど…なるほど…を繰り返し、いつの間にか最後のページにたどり着いていた。