吉備春日神社にて、しばし大津皇子の悲劇に思いを馳せたあと、私達が向かったのは…やはり、大津皇子を思い起こさせるような風景。
かと言って、この池は…磐余の池ではない。けれども、遠く見える山並みを見れば、私達の思いはおのずと大津皇子にむけられてしまう。その山並みの、ほとんど中央の小さな2つの頂きが、二上山だ。
雌雄、2つ並んだ頂きの雄の方にある二上山墓が大津皇子の墓である…と、長く信じられていたが事実、宮内省もそのように治定しているが、近年、はその山麓に存する鳥谷口古墳が大津皇子の真墓ではないかとされている。まあ、いずれにしてもこの山が私達に明日香の遠き御代にあった悲劇を思い起こさせずにはいられないのは事実である。
そして・・・私達はこの池のぐるりを巡って、今見えている池の反対側へと進んだ。
大津皇子の姉の大伯皇女の、
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む
萬葉集二・163
と彫られた歌碑がある。日本画家の小倉遊亀さんの揮毫だという。そしてその傍らにも…
今度は、歌人の中川幹子中河与一の妻の揮毫である。ちょいと見えづらいが、
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
萬葉集巻三・416
と彫ってある。大津皇子の辞世である。前回は皇子の辞世の詩を刻んだ石碑を紹介したが、今度は歌碑である。大津皇子は「幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属る」人物である。この国の「詩賦の興り、大津より始まる」と日本書紀にするされるほどの人物である。詩だけではなく、ちゃあんと辞世の歌も残しているのだ。
もっとも、これが実作であるかどうか、疑義を差し挟む筋がないではないが、少なくとも大津の辞世の詩も歌も彼の作だと信じ、その悲劇を語る継いだ人々の存在は確かである。私はその事実を重視したい。
ところで、磐余の池でないとすればこの池はなんという池なのか…
吉備池である。どうも、そんなに古い池ではなく、江戸期に水利のために作られた池のようだ。けっこう、あちらこちらにあるようなものだ。けれども、そんな池にわざわざ立ち寄ったのは上で紹介した歌碑を見るためばかりではない。
時代は江戸期をぐっと越えて、やはり明日香の時代まで遡る。それは1997年の発掘調査で明らかになってきたことである。かつてこの場所には巨大な寺院があった。
百済大寺である。
南に向いて回廊の中の東に金堂、西に塔が配されている伽藍配置である。法隆寺と同じ伽藍配置であるということを、お話を頂いた先生に教えていただき、私はそういえばそうだったかななんて何度も法隆寺に行ったことがあるくせに感心している。となれば、その北側に講堂があるはずなのだが、その跡は未だ発見されてはいない。
注目するべきは、その巨大さである。金堂は東西に37m・南北28、、西側に配された塔の基壇は30m四方の規模である。そこから推定される塔の高さは…80〜90m100mを越えていたのではないかとも。これは、国家的な規模の寺院に間違いない。
いただいていた本日の資料には日本書紀の以下の記述をお示しいただいている。それは舒明天皇の11年(639)〜13年(641)の記事である。
(11年)秋七月に、詔して曰はく、「今年、大宮及び大寺を造作らしむ」とのたまふ。則ち百済川の側を以ちて宮処とす。
(12年10月)この月に百済宮に徒ります。
(13年)冬十月の己丑の朔に、天皇、崩りましぬ
この時代、天皇の御代によって宮の位置が変わることが常ではあったが、それでも基本的には明日香の地に置かれるのがならいであった。
なのに…
そう…舒明天皇は宮と大寺をともに明日香の外に置こうとしてたのだ。舒明天皇が明日香から抜け出そうとしていた、すなわち明日香に基盤を置く蘇我氏の影響力から離れようとしていたのではないかと先生のお話。私はなるほどなあと思いながら、そういえば、大和盆地の中央部にある広陵町にも百済寺ってお寺があったなあと思いだしていた。そして、かつては百済大寺もその場所にあったと考える向きも少なくはなかった。
けれども、私はその百済寺を訪れた際のレポートに、上の日本書紀に出てくる「百済」は広陵町のそれではなく、桜井市吉備池廃寺周辺であると述べた。
てなことで、かつてこの場所に巨大な寺院が存在していたと考えられるが、以後、この大寺は
さあて、時間は正午に近づこうとしている。そろそろ、昼食場所へと急がねばならぬ。