次に訪ねたのはここ。
神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑である。神武天皇聖蹟については
平成における神武天皇
一神武天皇聖蹟顕彰碑の現状ーW.エドワーズ(天理大学学報58)
に詳しいが、なんでも紀元2600年に向けての事業の一つで、主に東征ルー ト上の19ヶ所を神武天皇の聖蹟と定め、かような石碑を建立したのだそうな。我が家の近くにも神武天皇がナンパなされたという「「狭井河之上推考地」があり、同様な石碑が建てられている。そしてその裏面には、
との記載がある。神武天皇戊午11月の記事についてである。熊野に上陸し、吉野から宇陀に入った神武天皇一行はいよいよ大和平野へと攻め込もうとする。迎え撃つのは、大和の諸豪族連合(八十梟帥)。神武天皇は大和盆地侵攻にあたって自らの軍を2つに分け、男坂・女坂に分けた。その坂の下りきった場所、兄磯城が待ち受けていた場所が磐余である。日本書紀戊午11月このときの兄磯城の軍の様子を「磐余邑に布き満めり」と記している。日本書紀は続けて言う、「賊虜の拠る所は皆是要害の地なり。故、道路絶え塞がり、通ふべき拠無し。」と。
ここが…宇陀から下る神武天皇の最初の激戦地である。
そして、日本書紀はこの戦いの記事を受けて、神武天皇2年の条に
我が皇師の虜を破るに逮り、大きに軍集ひて其の地に満めり。因りて号を改め磐余と為す。」と、その地名の由来を語る。さらに、「或いは曰く」として、神武天皇が大和平野の西部に進行した時、「磯城の八十梟帥」がそこに「屯聚居たり。故、名づけて磐余邑と曰ふ。
とも記している。
いずれにしても。八十梟帥の軍がそこに大勢集まっていた…という状態を、「いはむ」という語で表し、そこから「いはれ」なる地名が生じたのだというのだ。
あてになる話かどうか、ひとことでは言い難い面もあるが、ようは日本書紀の編集者がそのように認知していたということだ。以前にも書いたが、そのいわれが考えられるというのは、それなりの理由があっての営みなのである。
続いては、この聖蹟碑のすぐ裏手にある吉備春日神社である。
春日神社であるから、その祭神は当然、武甕槌命 ・経津主命 ・天児屋根命・姫大神 であるが、それは元禄十年に大臣藪宮屋敷にあった春日社をここへ遷座してからのこと。それまでは、天武天皇を祀るお社があったらしい。そんでもって、その天武天皇を祀るお社は境内社として今も本殿の左にある。
そして、この場所でのお話は大島先生。我が母校の先輩である。私が大学に入ったばかりの頃先生は4年生で、卒論の制作の真っ最中。お忙しい中、いろいろとお導きいただいた方である。お話の中心はこの詩碑について。
金鳥臨西舎 金鳥西舎に臨らひ
鼓声催短命 鼓声短命を催す
泉路無賓主 泉路賓主無し
此夕離家向 此の夕家を離りて向かふ
と彫ってある。揮毫は劇作家として有名な福田恒存。桜井市中のこうした歌碑は前もどこかで言ったように結構贅沢なラインナップである。桜井出身の評論家保田与重郎の力が大きいとの声が、歩いているうちにどこかで聞こえてきたような…
詩の意味は「夕日は西の空に傾き、夕べを告げるの鐘は命の短いことを実感させる。黄泉に向かう路には客も主人もなくただ一人のみ。私はただ一人、この夕、私は誰の家に向かうのか…」ほどの意味か。懐風藻、大津皇子四首のうちの、大津皇子の辞世の詩となる「臨終」である。
大津皇子は、その懐風藻に
状貌魁梧 気宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属る。壯にして武を好み、多力にして、能く剣を撃つ。性頗る放蕩にして、法度に拘れず、節を降して士を礼びたまふ。
とあるように、格好が良くって、器も大きい人物で、文武両道、性格も上々という否の打ちどころのない人物だったようである。生母は太田皇女。天智天皇の皇女である。次期天皇としては十分な位置にある。翻って、天皇候補としての一番手の草壁皇子は、どうも人はいいけど、凡庸だし…と思った時、人はどう思うのか?
大田皇女は早くに他界し、大津皇子はその段階で皇位継承のレースには出遅れた格好になっている。とはいえ、天武天皇の正妻として、しかも天武との間に生まれた草壁皇子をどうしても皇位につけたいと思っていた鸕野讚良からみれば、大津皇子は気になって仕方のない存在であった。
そして勃発したのが、いわゆる大津皇子事件である。謀反の罪を着せられた大津皇子は「訳語田の舎」にて死を賜る。この作はおそらくはその際のものであろう。