萬葉一日旅行2023(3)

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次に訪ねたのはここ。

金鳥臨西舎 金鳥西舎にらひ

鼓声催短命 鼓声短命をうなが

泉路無賓主 泉路賓主無し

此夕離家向 此の夕家をゆうへりて向かふ

と彫ってある。揮毫は劇作家として有名な福田恒存。桜井市中のこうした歌碑は前もどこかで言ったように結構贅沢なラインナップである。桜井出身の評論家保田与重郎の力が大きいとの声が、歩いているうちにどこかで聞こえてきたような…

詩の意味は「夕日は西の空に傾き、夕べを告げるの鐘は命の短いことを実感させる。黄泉に向かう路には客も主人もなくただ一人のみ。私はただ一人、この夕、私は誰の家に向かうのか…」ほどの意味か。懐風藻、大津皇子四首のうちの、大津皇子の辞世の詩となる「臨終」である。

大津皇子は、その懐風藻に

状貌魁梧じょうぼうかいご 気宇峻遠きうしゅんえん、幼年にして学を好み、博覧にしてく文を属る。壯にして武を好み、多力にして、能く剣をつ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘れず、節を降して士をゐやびたまふ。

とあるように、格好が良くって、器も大きい人物で、文武両道、性格も上々という否の打ちどころのない人物だったようである。生母は太田皇女。天智天皇の皇女である。次期天皇としては十分な位置にある。翻って、天皇候補としての一番手の草壁皇子は、どうも人はいいけど、凡庸だし…と思った時、人はどう思うのか?

大田皇女は早くに他界し、大津皇子はその段階で皇位継承のレースには出遅れた格好になっている。とはいえ、天武天皇の正妻として、しかも天武との間に生まれた草壁皇子をどうしても皇位につけたいと思っていた鸕野讚良からみれば、大津皇子は気になって仕方のない存在であった。

そして勃発したのが、いわゆる大津皇子事件である。謀反の罪を着せられた大津皇子は「訳語田をさだいへ」にて死を賜る。この作はおそらくはその際のものであろう。

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