前回は、今回の萬葉一日旅行の主たるコースである磐余について、武庫川女子大の影山先生からのお話を紹介した。だが、しかしである。前回紹介したのは、このときの先生のお話のすべてではない。そのあとにも実に興味深いお話が続いた。
前回紹介のお話はいただいた資料に載っていた「国氏大辞典」の記事に基づいてのものだったが、さらに先生のお話はカムヤマトイハレヒコに及ぶ。
ご存じの通り、カムヤマトイハレヒコは初代神武天皇のことである。まあ、「大和の磐余に君臨する男」ほどの意味である。神武天皇については、その実在性に疑義が唱えられているが、少なくとも、このカムヤマトイハレヒコという名は、この王朝の始祖が磐余に何らかの関係があったことを示すとは言えるだろう。事実、神武天皇が宇陀の地から大和平野に進行する際に、その激戦地となったのは磯城であり、磐余であった。
とは言いながら、神武天皇以降で、磐余及びそれに関連する地名が日本書紀に頻出するようになるのは神功皇后以降のことになる。今回の資料の最終ページの一覧を参考にその宮・陵・社寺の一覧を示すならば、
履中天皇 | 磐余稚桜宮 | 400年 |
清寧天皇 | 磐余甕栗宮 | 480年 |
継体天皇 | 磐余玉穂宮 | 526年 |
敏達天皇 | 訳語田幸玉宮 | 575年 |
用明天皇 | 磐余池辺双槻宮 | 585年 |
磐余余池上陵 | 587年 | |
舒明天皇 | 百済大寺 | 639年 |
百済宮? | 640年 | |
関連施設 | (西暦) |
となる。一瞥して、5世紀から7世紀初頭にかけての多くの時期に、この磐余に政権の中枢があったことがわかる。むろん、この時期のすべての天皇が宮を磐余に構えたわけではないが、上のように何度も何度も磐余の地に回帰した事実は、この時代の人々にとって、磐余は依って帰るべき場所であったように思われる。
この後に続く時代の政権の中枢が明日香にあった事実、上の表最後の舒明天皇は明日香に都を構えたことを思えば、大和政権は
3~4世紀・三輪山周辺……5~7世紀・磐余……7世紀・明日香
とその中枢を置く位置を移動させたことになる。このあとの藤原京や平城京・平安京はご存じの通り。
てな、お話の後に、資料にある以下の萬葉歌についてのお話がある。
春日蔵首老の歌一首
つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜はふけにつつ
(三・282)
同じく石田王の卒る時に、山前の王の哀傷して作る歌一首
つのさはふ 磐余の道を 朝去さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月には あやめ草 花橘を 玉に貫ぬき 一に云ふ 貫き交へ 縵にせむと 九月の しぐれの時は もみち葉を 折りかざさむと 延ふ葛の いや遠ほ長く 一に云ふ 葛の根の いや遠長に 万代に 絶えじと思ひて 一に云ふ 大舟の 思ひ頼みて 通ひけむ 君をば明日ゆ 一に云ふ 君を明日ゆは よそにかも見む
(三・423)
右の一首、あるいは云はく、柿本朝臣人麻呂が作なり、といふ。
資料には上の2つの歌がねせられていたが、お話は主に春日蔵首老の歌についてであった。
春日蔵首老はいったんは僧籍に入ったが、大宝元年(701)の3月に、朝廷の命により還俗させられた。言ってみれば、還俗させてまで公の仕事をさせたいというのが朝廷の意思であったのだろうから、それだけ優秀な人であったのだろう。そしてその際に春日蔵首の姓と老の名を賜わる。残された作品を考え合わせると藤原京の時代から平城京の時代の初期の人である。
一首の意は、
まだ磐余の地も過ぎていない。泊瀬山をいつ越えることができるのだろう。夜はもう更けて行くというのに。
ほどのもの。問題の核は二句目、「磐余も過ぎず」にある。
磐余の地は、明日香からも藤原宮からもほど近い場所にある。藤原宮中心部から歩いても、30分もあれば磐余に足を踏み入れることになる明日香からでも然りである。それほどの至近の距離でありながら、作者は「まだ磐余の地も過ぎていない。というのに、「泊瀬山 いつかも越えむ 夜はふけにつつ」と歌う。少々「???」と思わざるを得ない。
この点について、先生はまず、澤瀉久孝先生の万葉集注釋にある説明を紹介してくださった。曰く…
磐余は飛鳥藤原京の郊外であり、そこに至らずして夜が更けるといふ事に不審が感ぜられるので、私注万葉集私注土屋文明 三友亭主人注には「或は初瀬の方にある女の許へ通ふやうな時の作であるかも知れぬ。」とある。タクシーを拾ふわけにゆかぬ焦燥がこのなげきになつたとみるべきであらうか。
萬葉注釋より
「タクシー」云々以降の部分は澤瀉先生のジョークなんだろうなあ、かつてはこういった注釈書の類でもこのような書くことが許されていたんでしょうなあなんておっしゃりながら、そういえば私たちだってアフターファイブに待ち合わせに急いだりするときに、ちょいと焦ったりしませんか…なんてことを話してくださった。
つまり、作者が家を出て女の家に向かったのだから、それは当時の常の夕刻であった。そして、その時刻が少々遅くなってしまい、夜が更けてしまったと焦燥しているのである…なんてことをひとしきりお話した後、ただね…と話は続いた。
春日蔵首老は万葉集に歌を8首残しているが、この歌を除く残りの7首は、題詞・左注で旅の歌であることが明らかなもの、事情を示してはいなくても内容から旅の歌と思われるものばかりで、しかもこの歌のある場所は雑歌である。
となればこの歌も公式な旅の歌であると考えたほうが正解の可能性は高いだろう。だとすれば、飛鳥・藤原京から至近の磐余をなぜ夜になっても行き過ぎることができないでいたのか…ということになる。
影山先生のお答えは…平城京に都が遷ってからの作だと考えればいいのではないか…ということであったと記憶する。確かに、万葉集が私達に示しているのはこの歌の作者が春日蔵首老ということだけであり、この歌の収録されている配列位置からだけならば、それが飛鳥・藤原京の時代でなければならないという徴症は読み取れない。おまけに、老は平城人でもある。平城京から磐余のあたりまで、その距離25kmは下らない。午前中の早い時間帯に出ない限り、磐余を通過するのは夕刻迫る時間帯になってしまう。ましてや、何らかの都合があって昼を回ったあたりに出なければならない状況だったとしたら…
おおよそこんな感じのお話だったかと思う。むろん、私の記憶違いや、勝手な思い込みから、せっかくの先生のお話を歪めてしまっている箇所はあることは否めない。そこがどこかわかればいいのだが、そもそも分かっているのならば先生のお話を歪めたりはしないのだから無理な話である。