先週は恒例の週末の更新をサボってしまった。ちなみに、いつも私はこんなふうに行った後、別に忙しかったわけではないと続けるのが常であるが、先週は本当に土日ともに仕事であった。
その、昼休み。ちょいとお散歩をしているとこんなものが目に入ってきた。
「芸亭?」
…どこかで聞いたことがあるぞ…と思いながら、その傍らにあった案内掲示を見る。
「おう、そうだったそうだった。確か高校の日本史の時間に習ったぞ」。「石上宅嗣」という名前も「芸亭」という言葉も、確かに高校の日本史の教科書の出ていた記憶がある。
石上宅嗣は奈良時代の高官であり文人としても知られている。天平勝宝3 (751) 年従五位下に叙せられ、以後、相模守、 三河守、上総守、遣唐副使、文部大輔、大宰少弐、正五位上常陸守と順調に昇進をした。我らが大伴家持や藤原良継、佐伯今毛人たちと藤原仲麻呂打倒の企てを立て、これが発覚したこともあるが、そのときは良継さん一人が責めを負い、宅嗣や家持なんかは罪を免れた。仲麻呂の死後は、再び順調に昇進は続き、薨去した天応元(781)年には正三位を叙せられている。このときの宅嗣の職は大納言。左右の大臣に次ぐ位置である。
宅嗣は淡海三船とともに文人としても知られ史、詩文に秀で、草隷が巧みであったという。そしてここで行っておきたいのが、この芸亭との関わり。宅嗣は晩年に仏教に心を寄せ、自宅を阿 閦寺 として寺に造り直したという。そして、阿 閦寺 には仏教から見れば外典主に儒教関係のものとされた書を多く集めた堂を設け、好学の徒に縦に閲覧を許したという。仏教寺院なのに外典を多く集めたということには「?」と思われる向きがある方もあるとは思われるが、そのあたりについて宅嗣は次のように語ったという。
内外の両門は本一体なり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典を足すけんがために外書を加え置く。
私の拙い訓読であるので、もしものために原文も以下に乗せておく。
内外両門本為一体 漸極似異 善誘不殊 僕捨家為寺 帰心久矣 為助内典 加置外書
続日本紀、天応元年10月に記された石上宅嗣の薨伝の一節である。「為助内典 加置外書」の下りには頷かされる次第である。
さて、今私の立っている場所は平城京一条大路と国道24号線が交わる辺り、交差点の信号の下の地名表示には「法華寺東」とある。
そういえばこのあたり…と思いだしたことがあった。
平城宮跡、近くに有力貴族の大邸宅? 奈良の高校に遺構
奈良市の平城宮跡(特別史跡)から約1キロ離れた市立一条高校の敷地内から、邸宅跡とみられる遺構がみつかった。専門家によれば、約250メートル四方に及ぶ大邸宅だったとみられ、有力貴族の邸宅跡の可能性が高まっている。
2019年9月12日の朝日デジタルの記事である。この発掘の詳細をお知りになりたければ
この写真は今も名をその場所で続く発掘作業の様子である。
単純な私などは、ついついこの遺跡こそが石上宅嗣の邸宅跡!なんて短絡的に思ってしまうが、上の報告書によれば石上宅嗣宅跡…すなわち芸亭跡はこの遺跡の面する一条大路の向かい側すなわちこの遺跡の南側の区画が推定されているので、どうやらこの遺跡は石上さんのお宅ではないらしい。
まあ、一条大路沿いの区画は行ってみれば当時の高級住宅街。たとえば、この遺跡から1kmほど西にゆけば、藤原不比等の住宅跡があり、そこからちょいと南に下ると長屋王のお宅があった。平城宮からはちょいと離れては行くがそのまま一条大路を東にゆけば佐保の地。言わずとしれた大伴家宗家の宅地があった場所である。
この遺跡の主は…そんな顔ぶれと肩を並べても決して引けを取らない、そんなお方であっただろう。一体誰なのか…興味は尽きない。
…ところで、今回石上宅嗣という名を思い出したことで、もう一つの記憶…芸亭やら石上宅嗣について…が蘇った。このことについて来週も覚えていれば…来週あたりにということにしたいと思う。
コメント
学問もあれば心も広い、実にえらいお方ですね。こういう人物が大納言というのは納得できますが、さて現在の日本国の大臣中にこれほどの教養人はありや?
薄氷堂さんへ
もちろん「たてまえ」の上でのことでしょうが、古代の官人にとって教養とは必須のものであり、それは自分たちが人の上に立つための資格であるように考えられていた…と中国関係の書物で読んだことがあります。そしてそこには、自分たちの立場を支える庶民たちのために自分たちの立場があるのだという教えが…
たとえそれが「たてまえ」だったとしても、その「たてまえ」すら重んじない大臣たちには教養は必要ないのでしょう。