それはそれはずいぶんと昔のこと…
大和がまだ湖だった頃のことじゃ。ある日のこと、どんな理由かは知らんが、その湖の西の岸辺の当麻の辺りに住んでおった蛇たちと、明日香の川原のあたりに住んでおった鯰たちとがいさかいが始めたそうじゃ。
いさかいはいつまでもいつまでも続いていたのじゃが、とうとう当麻の蛇たちが勝って、湖の水はみんな蛇たちに吸い取られてしまった。
湖の水はすっかりと干上がってしまい、湖に住んでおったたくさんの亀たちが渇きに苦しみながら死んでしまったそうじゃ。
幾年か経って、そんな亀たちを哀れんだ明日香の村人たちは大きな大きな岩を亀の形に彫って、亀たちを供養したのだそうじゃ…
大和について詳しい方ならもうお気づきだとは思うが…そう、あの明日香の亀石にまつわる伝説である。亀石とは、明日香村野口にある長さ3.m、幅2.1m、高さ1.8mの亀に似せてちょいと「?」ではあるが…作られた花崗岩製の石造物のことである。
いきなり標題とは関係のない昔話が始まって、こんなお話と萬葉学会がどんな関係があるのだと怪訝に思われた方も少なくはないと思う。
実はこの話にはもう少し続きがある。もうしばらくお付き合い願いたい。
この亀石は最初は北を向いていたそうなのだが、次に東を向いたという。そして、現在は南西を向いている。そして亀石が、当麻の方向の西を睨みつけるようになったとき…大和は泥の海と化す…とこの話は続くのだ。
荒唐無稽な話ではあるが、以下に述べるような大和の地理的な条件を考えた時この話は現実味を帯びてくるのだ。
…で、ここでやっと前回の話と繋がってくる。前回は、その終わりのあたりに
大和の盆地から水が抜けてゆく場所は、この大和川のみ。しかも、この下流は両岸を結構な高さの山に挟まれた、狭隘な谷間。少しでも雨が降れば…王寺町・三郷町の方々が心配になってくる気持ちは容易に想像できる。
と述べ、最後を
………おっと、これは来週に取っておこう………
と結んでおいた。その続きを述べるためにここまでの話は必要だったのである。
写真は前回もご覧頂いた、三郷町文化会館のすぐ前の川原から川下方向を撮った写真である。そんなに狭い川とは言えないが、大和平野の降り注いだ雨が河内へと放出されるにはいささか狭く感じられる幅ではある。
ここからは少しゆくと両岸は大和と河内を隔てる山地となり、川は狭隘な谷間を抜けてゆくことになる。だから、大和の地に大雨が降った場合、この川は急速に水量を増し、洪水の危険性が増すことは容易に想像できること、前回の記事を読めばわかっていただけると思う。
けれども、洪水ならば雨が止めばいずれ水は引くむろん相当の被害は否定できないが。いくら狭いと入ってもそこに流路が確保されている限り、溢れ出た水はいずれ河内へと抜け海に帰る。大和の「泥の海に帰す」などとは絵空事のように思える。しかし、この川のもっている危険はその狭さだけに由来するのではない。
実は…この写真の先…もう少し下流に行ったところに亀の瀬と呼ばれる浅瀬がある。詳細は上の動画を見ていただければおわかりいただけると思うのだが、要は地すべりを起こしやすい地質が、ここから先の狭隘な谷間にはあるということだ。
そのことを頭に入れた上でさっきの話を振り返ってみよう。この亀石は最初は北を向いていたそうなのだが、次に東を向いたという。そして、現在は南西を向いている。そして亀石が、当麻の方向の西を睨みつけるようになったとき…
亀石が、当麻の方向の西を睨みつけるようになったとき…亀石が勝手に動くはずはない。まあ、誰かが重機を使って動かすようなこともまずないだろう。
となれば、亀石がその向きを変えるのは…大いなる大地の震えぐらいしか考えられない。事実大和にはその盆地の東端に奈良盆地東縁断層帯があり、西端には生駒断層帯がある。さらに南、吉野には中央構造線が存し、いずれもマグニチュード7前後の地震を惹起させる可能性があるとされている。
もし、これらの断層帯がその持てる力を存分に発揮したならばあまり考えたくはないが、その地の震えは亀石の向いている方向を、現在の南西から真西の当麻を向かせることも十分に有り得る。そしてそれほどの地の震えが起きた時、もともと滑りやすい亀の瀬上部の断崖が地滑りを起こさないということは誰も断言できない。
事実、地震のせいではないのだろうが亀の瀬地区の調査で、古代には地すべりで大和川がせき止められ、亀の背地区からかなり上流まで湖水状になっていたことがあることがわかってきている。記録がはっきりしている近代に入ってからも地すべりは1903年、1931年、1967年の3回が記録されている。
国は昭和35(1960)年から調査を開始し、亀の瀬地すべりを防止するための対策工事は、大別すると、地形・土質・地下水の状態などの自然条件を変える「抑制工」、構造物を土塊に直接打ちこむことで地すべりに対する抵抗力をもたらす「抑止工」などが行われ、2011年3月に終了するこの日付がちょいと感慨深いよね。世界最大級の地すべり対策工事と言われている。
その甲斐あって近年はこの地域における地すべりは落ち着いていると見られている。が、今後の可能性は全く否定することはできない。先の述べたような大規模な地震の発生も全く可能性のないこととは言えない。
よって、工事の終了した現在にあっても現地では調査を継続中で、そのデータは出張所・事務所の集中監視システムによってリアルタイムで把握されている。
以上、標題の「続 萬葉学会にゆく」とはまったく関係のない内容となってしまった。このままでは申し訳ないので、ここで地にまつわる万葉歌を1首紹介することで、標題と無理やり結びつけることとする。
石上乙麻呂卿配土佐國之時歌
父君に 我れは愛子ぞ 母刀自に 我れは愛子ぞ 参ゐ上る 八十氏人の 手向する 畏の坂に 弊奉り 我れはぞ追へる 遠き土佐道を
万葉集巻六/1022
父君にとって私はかけがえのない子だ。母君にとってわたしはかけがえのない子だ。なのに、都に上るもろもろの官人たちが、手向けをしては越えて行く恐ろしい国境の坂に、幣を捧げて無事を祈りながら、私は一路進まなければならぬのだ。遠い土佐への道を。
歌中の「畏の坂」とは大和と河内の国境にあたる、この大和川沿いの峡谷の坂道のことである。この道はかつては両国を結ぶ、さらには大和と西国・大陸とを結ぶ重要な道であったのだ。
なお、この地域は「日本遺産」にも選定されている。
コメント
ありがとうございます。
「もう、すべらせない!!」の意味がよく分かりました。
地滑り対策の大工事、貴重ですね。
そして、火山の状態を調べるのと同様の感知システム。
全く知りませんでした。
間違っても「大和川の水、止めるで」なんて言えませんね。
エライことになることがよくよく分かりました。
源さんへ
>「大和川の水、止めるで」なんて言えませんね。
そうなんですよ。止めてしまったら困るのは誰か…はっきりしていますからねえ。
河内の方々は他にもいくつもの水源を持っていらっしゃいますからね。
>私も資料のダウンロードのサイトに飛べませんでした。
どうしちゃったんでしょうねえ。私達は資料を持っているからいいものを…
あ、私も資料のダウンロードのサイトに飛べませんでした。
何か不具合があるのでしょうね。