私の世代の人間は、さだまさしという人の歌う歌を耳にすることは少なくはなかったかと思う。さだまさしの熱心な聞き手ではなかった私でさえ口ずさむことのできる歌はいくつかある。また、若い頃に映画で失敗して大変な借金を背負い、それを長きに渡って返し続けていたことも知っている。さらには私が一時期愛読していた山本健吉は、彼のフアンでカラオケに行けば「防人の詩」をよく歌っていたことだって知っている。けれども、コンサートに行ったり、彼のレコードをわざわざ買って…なんてことはしなかった。
けれども、所帯を持ってから、かつてはさだまさしのフアンだった妻の持っていた彼のレコードについていた歌詞カードを眺めていると…けっこう、丁寧に言葉を選んでいるなと感じさせられた。たとえば、「防人の詩」一部、
海は死にますか 山は死にますか
との一節は、万葉集巻13・3852の
鯨魚取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
を踏まえているのは明らかで、山本健吉もこんなところが気に入っていただろうなあなんて感心していた。けれどもそれは、30年近くも前のこと。以降は、さだまさしを聞く機会はそれほどもなく過ごしていた。
けれども昨年から車の中でYouTube Musicで音楽を聞くようになってから
「まほろば」…である。
この歌の、
例えば君は待つと黒髪に霜の降るまで
との一節は、磐姫皇后の、
ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
万葉集巻二・87
を踏まえているのは明らかだし、冒頭の、
春日山から飛火野あたり
の飛火野を現在通用している読みの「とびひの」ではなく「とぶひの」と読んでいるあたりも、古式を踏まえている点はさすがと思う「馬酔木」を「あせび」と読んでいるのは少し?であるが。
ということで、私はけっこうこの歌を気に入っているのだが、一つだけどうしても「?」と思わずにはいられない部分がある。それは、この歌の末尾。
青丹よし平城山の空に満月
である。音楽自体はエンディングに向けて最高潮に盛り上がり、さだまさしのボーカルもそれに合わせ力の入ったものになる。そしてそのメロディーの絶頂を上の一節で迎えることになる。
私の感じた「?」は、大和の地形を少しでも知っている方は誰しもが感じる「?」なのではないかと思うのだが、いかがだろうか。
平城山という言葉は、奈良県の奈良市と京都府の木津川市の境を東西にのびている丘陵地帯をさしている。「まほろば」の歌詞を素直に読む限り、詩を書いた人間がいる場所は春日野周辺。だから、その位置から見れば平城山は北方ということになる。
大和の地形に詳しくない方でも、もうおわかりだろう。「満月」が輝くのは東の空であって、北の空ではない。春日の地にあって満月が輝くのは、
天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋の山に出でし月かも
古今集羇旅 阿倍仲麻呂
と歌われたように御蓋山の上空であって、決して平城山の上空ではない。
となれば、この末尾は作者の誤謬と理解するべきなのか。
しかしながら、この詩の作者は大和を訪れたこと、一度や二度ではない。またこの詩を読んでも分かる通り、作者は大和の地理はよく理解している少なくとも奈良市界隈はと思われる。私が上に指摘したことなどよくわかっていたはずである。
ならばなぜ…?
というのが私の疑問である。
単にこの部分のメロディーには「平城山」という言葉しかはまらなかった…ということなのか、ならば「満月」の語をなにか他の語に変えればよかったのではないかとか、あれこれ難癖ばかりが思いついて来る。
コメント
奥様がさだまさしのファンでいらしたのは過去のことなのでしょうか?
だとしたら、それはちょっとさみしいです。
平城山に満月というのは、確かに不審ですね。仰る通り、さだまさしは奈良市の地形はよく知っていたでしょうからねぇ。
源さんへ
>過去のことなのでしょうか?
いやあ、今でも嫌いじゃあないとは思いますよ。
まあ、聞く範囲が広がってきて、その中のひとりになってしまったということじゃあ無いんでしょうか。
>平城山に満月というのは、確かに不審ですね。
ずうっと不審だったんですよ。さだまさしさんたるお方がこの点に気が付かないはずはないし…となればそこにあるのは、作品を作る上での何らかの虚構。そこが見えないんですよねえ…