しかし…である…(続く)
なんて、思わせぶりな言い方で先週は話を終わっていた。先週は、
先の大戦の際に京都・奈良と言った古都が空襲を免れたのは例外的な場所はいくらかはある、ウオーナーというお方…芸術史家…が空襲するべきではない都市文化財保護の観点からのリストを作り、軍に提出し、これらの町を空襲しないように説得したからである。そして奈良桜井市の一住民がこのことに感銘を受け、苦しい生活の中から、その功績を称えるための石塔を建立した…
なんて話をしたと思う。けれども、その結びに
しかし…である…
なんて結びをしたならば、「先の大戦の際に京都・奈良と言った古都が空襲を免れたのは、ウオーナー…が空襲するべきではない都市文化財保護の観点からのリストを作り、軍に提出し、これらの町を空襲しないように説得したから」ではないのか、と私の一言にいぶかしさを感じていらっしゃる方がおられるかもしれない。
今回は、そう思っていらっしゃる方に、その真意をお伝えするために少々説明を付け加えておこうと思う。したがって、「ははあ〜ん、あのことか。」とお思いになられた方は、「やっぱりな。」ってなことになってしまうかもしれないが、まあ、これも何か御縁、最後までお付き合いいただければ幸いである。
一般に奈良には空襲はなかった、とされているがこれは全くの嘘であるむろん、京都についても事情は同じである。帝塚山大学の法学部平和学ゼミ指導 末吉洋文先生の奈良県の戦争遺跡 : 忘れてはいけない歴史(WEB版)には奈良県への空襲への詳細な調査の結果が報告されている。私も仕事柄、和歌山との県境にある五條市の北宇智への爆撃や、私の職場のある宇陀市榛原へ機銃掃射について調べたことがあったし、奈良市法蓮町、法華町のあたりとか、一条通沿いとかに爆撃があったことや、我が住む町の桜井市のお年寄りからは市内の長谷の地に機銃掃射があったことを聞いたこともある。
それは確かに大都市に対する大規模な空襲からすれば被害は較べるべくもないが、奈良市中心部への爆撃も行われたことは事実である。果たして、アメリカ軍に文化財保護の観点から空襲を避けるべき町…なんて認識があったのか?
この点について平和学ゼミの皆さんは、上の文章に奈良の戦災の記録を撮り歩き、「大和から もうひとつ つたえたいこと。ー奈良・戦災の記憶ー」という写真集を出しておられる、西田敦さんという方のレポートを聞き、次のようにまとめられている。
しかし、1993年に「古都の恩人伝説」を否定する論文が発表され、 奈良は規模が小さく空爆リストの下位にあっただけで、奈良と同様の古都・京都が空爆を免れたのは原爆投下が予定されていたためであるとして、「占領政策上の理由でGHQが『伝説』 を作り上げた」と結論づけられた (吉田守男「ウォーナー伝説批判 京都・奈良の空襲に関する恩人説の検討」『日本史研究』 第383号 (1994年7月)、 30-58頁。)。『奈良県の百年 』 には、「米軍が奈良を空襲目標からはずしたとはいえない事実」 との記述がある。 また、当時ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長であったウォーナー博士によって作成された 『陸軍サービス部隊便覧、民間事情ハンドブック、日本、文化施設』 によって 「奈良の爆撃が回避されたという積極的根拠はみあたらない。 ウォーナー博士自身の言明どおり、かれは『リストを作っただけ』というのが真相であろう。」と記されてある。
奈良県の戦争遺跡:忘れては行けない歴史(WEB版)p44
私は、今回の記事を書くに当たって、この帝塚山大学法学部平和学ゼミのみなさんの文章を読む前に文中の吉田守男氏の
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に部分的にではあるが触れることができていた。京都が原爆の攻撃目標であったなんて言うのは結構刺激的な情報ではある。ただ、いくつかの事情地形等が原爆の投下に適さなかったため、その攻撃対象から外されたのだという。そして…奈良に大規模な空襲がなかったのは、町としては規模が小さく、空襲するべき施設がなかったので、米軍のリストからは極めて後位に回されていたことがその理由なのだという。資料として米軍内の報告書等を活用しておられる氏の説くところは説得力に富む。さらに
仙台城 大垣城 名古屋城 熱田神宮 広島城 岡山城 永福寺 松山城 宇和島城 首里城
大阪城 四天王寺 寛永寺 浅草寺 皇居 明治神宮 増上寺 帝国ホテル 姫路城
といった、ウオーナーリストにあげられていたという、上の建造物が全焼・半焼を免れることができなかったという事実を考え合わせたとき。これを否定することは難しい。
とすれば…自らの生活を切り詰めながらもウオーナーさんに感謝の気持ちを示そうとした、一市民の思いはどうなるのか…
この石塔の建立に際しては、桜井市市長も甚く感じ入り、その除幕式は賑やかに執り行われたという。
中川の“美談”に感動した萩原桜井市長の計らいで、桜井市と同市仏教連盟の主催で盛大な除幕式が四月七日に同公園でおこなわれた。式は神田真証(正覚寺住職)が導師となり、市仏教会の僧二〇名のほか萩原桜井市長、平石市議会議長をはじめ失対従業員約一五〇名も参加しておこなわれた…<中略>…この除幕式の間、町では同市商工会が花火を打ち上げ、お花祭りの白象を引いた数百人の子供たちの行列が公園に繰り出し、子供劇場ではお花祭り子供大会の歌声が、中川が建てた記念碑の除幕を祝って夕方まで聞こえた。また、中川が中心となって調べて書いた、ウォーナー博士の功績をたたえるパンフレット『ウォーナー博士を偲びて」(本文二一ページ)が桜井市観光協会から出版され、市内の全小学生・中学生に配布されたという〔四月四日付「朝日新聞』大阪版、四月八日付『大和タイムス』、同『朝日新聞奈良版〕さらに、中川伊太郎のウォーナー記念碑の完成を祝って賛歌まで作られた。
吉田 守男 「京都に原爆を投下せよ―ウォーナー伝説の真実。」
吉田氏は、桜井市のこの経緯を例に、「ウォーナーの“美談”が一日雇い労働者の“美談”をも生み出した」上掲書と断言していらっしゃる。いや、これは桜井市だけの問題ではない。同じようにいわゆる「ウオーナー」伝説を信じ、その恩に報いるために塔を建立したのはここだけの話ではない。ウオーナー塔と称される石塔は他にもいくつかの町で建立されている。
ならば、このウオーナーの美談は一体誰が作り上げたのか…詳しくは上の吉田氏の言うところを確認していただきたい。
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