我が県であった事件のため、世間が何やら騒々しい。私のようなものでも思うところがないでもない。しかしながら、迂闊にその思いを書き始めたならば、その言動の客観性を保証することに自信が…私にはない。私的なことを書くことが許される場とはいえ、これまで私は当ブログにおいて、出来得る限りの客観性を保つことを旨としてきた。
ならば…私の取るべき態度は…そう、何事もなかったかのように先週からの続きを書き連ねるだけである。とはいえ、たった一日のことを、いつまで書いているんだとの思いもあるし、それよりもなによりも、その日の記憶がそろそろ怪しくなってきた。どこでどの先生がお話くださったのか、あるいは、そのお話の中身すら…情けないことに曖昧になってきた。だから、5月28日の万葉ウオーキングについて書くのは今日でおしまいということにしたい。したがって、以下はしょりにはしょって…最終目的地にたどり着くこととする。
大神神社をあとにした私達は、大神神社内の狭井神社でその御神水に喉を潤した。かつては拝殿の裏手にある水汲み場で、ご浸水を頂いていたのであるが、このコロナのご時世である。拝殿裏の狭い水汲み場に人が密集してはならない。拝殿前の神庭にのぼる手前の池の畔に、ソーシャルディスタンスが十分に保たれるべく、新たな水汲み場が作られていた。
さて、道はこのあたりから大神神社の境内を離れる。次第に細くなってゆく山辺の道はほどなく小さなせせらぎを渡る。
狭井川である。三輪山を水源として、初瀬川に注ぐこのささやかな流れは古事記に次のように書かれている。
其の河を佐韋河と謂ふ由は、その河の辺に山百合草あまたあり。故、其の山百合草の名を取り佐韋河と号けき。山百合草の本の名佐韋と云ふ
古事記 神武天皇
そして、この辺り一帯が初代神武天皇の皇后であ伊須気余理比売のご実家の会った場所であり、お二人が初めて結ばれた地でもある。
同じく古事記にこの河は
狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
古事記 綏靖天皇即位前
と詠まれている。神武天皇が崩御した際にあった謀反の兆しを「風吹かむとす」という言葉で息子たちに伝えようとしたのである。「狭井河よ 雲立ち渡り」、「畝傍山 木の葉さやぎぬ」。畝傍山は皇居のそばであるから、その木の葉のさやぎは聞こえてくるだろうし、遠望すれば三輪山の北に雲が立ち上るのも見えるであろう。
まあ、「雲立ち渡り」という表現から想像されるイメージと、今実際に見る狭井川のイメージはだいぶ違う。
こんなときによくいわれるのは、杉の植林が進んだ今山の持つ保水力は落ち、それに従って大雨でも降らなければ…などと言った説明をよく聞くことがあるが、なにぶん狭井川の水源が神山三輪である。太古の昔から斧は入ってはいない。無論多少の植生の変化は認められるだろうが、概ね今の流れはかつてのとおりではなかったのか…と私は思っている。
狭井川を渡り暫く進むと、道は少しずつ広くなり、一行は横に広がり、各々楽しげに話をしながら道を北上する。そして、その道が大きく右に曲がり、さらに左に曲がった先にあるのが玄賓庵である。
弘仁年間というから1200年ほど前のこと、玄賓という弓削氏出身のお坊さんが桓武天皇の病気平癒に際して功があって、取り立てられようとしたが、これを嫌って隠棲を始めたのがこの庵である。拝堂に平安中期の作である重要文化財木造不動明王座像や玄賓僧都半跏像などを祀る。例の廃仏毀釈の際に 大神神社神宮寺の大御輪寺にあったものを移したものであるという。さらに本堂には大黒天像・毘沙門天立像・役行者像などを安置している。
上の写真は、そのいずれでもなく、庭先にある護摩焚き場のお不動産である。私のお気に入りだ。
なお、この庵は謡曲「三輪」で名高い。
続いては檜原神社。
それは崇神天皇の6年のこと、民が農地を離れ流浪するものが目立ち、政権に背くものが多く現れた。天皇の徳のみでは国を十分に保ち難くなった。天皇は神々にその対処の策を問う。神々の返答は…これまで皇居内に天照大御神と倭大国魂の二柱を祀ってきていたが、両神ともに神威が強すぎ、互いに安らかに暮らすことができないのだと…そこで天皇は、この二柱を別の場所に祀ることにした。そしてその鎮まり先が、倭大国魂は大和神社であるし、天照大神が伊勢神宮である。
ただし、天照大神は直ちに今の場所に鎮まったわけではない。あちらこちらをさまよった末の落ち着き先が伊勢なのである。かなり、好みのうるさい神様なのだ。
そして、そのあちらこちらの一つ一つを元伊勢という。
そしてこの檜原神社もその元伊勢の一つである。
また、この神社は例の「太陽の道」上に存するちょいと怪しげな話である。無論講師の先生方のお話ではないことも知られているが、その地理的な条件ゆえに春と秋の一時期にカメラを持った方々が集まってくる。写真下部にぼんやり写る、2つの頂を持った山…二上山のその頂の中央に夕日が沈むのを撮影しに来るのである。春分の日・秋分の日がそうだと言われていることが多いが、厳密に言えば、その前後、というぐらいが適当ではないかと思う。
#25やまとの季節「二上山に日が落ちて」.mp4 https://t.co/dEE3TAc0c7
— 三友亭主人 (@sanpendo) July 9, 2022
さて、本日のウオーキングはここで山辺の道を北上することをやめ、方向を西へと変える。そろそろ、駅の方に向かわなければならない。
檜原神社の参道を下る。道は真っ直ぐに西に向かっている。すると…道の左手に開けた場所があり、整備されていて講演のようになっている。その中央にこんな歌碑?があった。
&
何年か前の紅白歌合戦でも歌われた「大和路の恋」の歌詞を刻んだ歌碑である。むろん、近づけばその歌声が聞こえてくるようになってくる。歌っているのはご存知ご当地ソングの女王、水森かおり嬢である。
歌碑が作られているのは知っていたが、このように立派なものだとは…と思いつつさらに西に進む。
200mほど進んだあたりで周囲が開けてきた。左手に小高い円形の丘が見える。ただの岡ではない。ちゃんと名前がついている。茅原大墓古墳である。
4世紀中頃築造されたこの古墳は、全長86mの帆立貝式、2011年2月にこの古墳の周濠から発見された国内最古の人物埴輪はちょいと有名である。
そしてこの場所でお聞きしたお話が本日で一番…へえ〜…と思ったお話。まずは、下の地図を見ていただきたい。
地図の左端に赤字で示しているあるのが檜原神社。そこから道が西に出ているのがおわかりだと思うが、今私達がいるのはその道と茅原大墓古墳の方から北へと伸びているやや太めの道との交差点である。
端的に言おう。坂本先生はこの南北に伸びる道こそ本来の山辺の道なのだという。もちろんそっくりそのまま、この道が山辺の道だというのではない。ただ、
とすれば珠城山古墳の西を抜けるこの道は、そのまま景行、崇神の両天皇の御墓の西を抜けていたと考えるのが自然だと言える。
現在、山辺の道はもっと標高の高い場所を山に沿ってくねくねと、しかもアップダウンを繰り返しながら北に伸びている。言われているように、山辺の道が三輪と石上とを結ぶ軍事的に重要な道だったとすればあまりに迂遠。道はできる限り高低差は少なく、直線であることが求められていたことを考えれば、今回聞いたお話はまことに興味深い。
てなことで、更に西へ向かう。
ご覧の瀟洒な建物はそうめんの山本。いつだったか、賞も取ったような有名な建物である。とても暑かった一日だったから、この建物や周囲の木立が造る日陰はまことにありがたかった。一行のうち数名は中に入ってお土産のそうめんを購入しておられた。しばしの休憩の後、坂本先生より本日終了のご挨拶。この秋に萬葉学会が奈良三郷であるということ。万葉ウオークは一泊二日紀州への旅を考えているということ…色々と楽しみな予告をされていた。