本日の行程についての坂本先生のお話は終わり、今度は佐野先生の仏教伝来についてのお話。
冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅仏一躯 幡蓋若干 経論若干巻を献る
日本書紀 欽明天皇一三年
これが我が国における仏教の始まりである。欽明天皇の一三年とは西暦で言えば552年。
…そういえば、高校の頃、日本史の授業で習ったところによれば、我が国への仏教伝来には2説あって、その一つがこの552年、もう一つが欽明天皇の戊午の年(538年)であった。そんでもってその時の先生の話によれば、後者の説が有力であるとのことだったような記憶が、頭のどこかに残っている。以下は東京大学仏教青年会という組織が運営なさっているサイトの一節であるが、 私の記憶するところをうまく説明してくださっているのでちょいとお示ししてみることにする。
日本の仏教のはじまりを語る時に「公伝」という言葉が用いられる。この言葉には私的な伝来とは異なった、公の国家間の伝達を重視する意味があると思われる。「公伝」の記録のうち、『日本書紀』は五五二(欽明天皇十三)年に、百済の聖明王(聖王)が使いを遣わして仏像、経論、幡蓋を伝えたと記す。一方、『元興寺縁起』、『上宮聖徳法王帝説』は公伝の年次を五三八(宣化天皇三)年としている。現在のところ、『日本書紀』の仏教関連の記事には潤色が多く、史料的な価値は低いと考えられるため、五三八年説をとる見解が一般的である。
けれども、上記の文章はさらに「ただ、この説も絶対というわけではなく、百済の記録を視野に入れて両説を再検討する見解も出されている」と続く。
大和の国の仏法は斯帰嶋宮に天の下治しめしし天国案春岐広庭天皇の御代、蘇我大臣稲目宿禰仕へ奉りし時より創まれり…戊午に次りしとしの十二月に度り来たる。
元興寺縁起
志癸嶋天皇の御代、戊午の年十月十二日、百済国の主明王、始めて度りきて仏像 経教、併せて僧等を奉る。
上宮聖徳法王帝説
上の引用文の考えは、この「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」のほうが、日本書紀の記事よりも信頼性が高いのではないかとの評価の上のことであったが、佐野先生のお話によれば、かつては「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」が重視されていたが、最近、これらの資料の信頼性が薄らいできており、更に欽明天皇の治世下では「戊午」の年はなかったということから、最近では日本書紀の記すところに信頼が集まっているのだという。
仏教の伝来の際には、いささかの…というよりは国を二分する程のいざこざがあったわけだが、先生がおっしゃるにはこれは異国から渡ってきた単に新しい神を受け入れるか受け入れないか問題だけではなく、その教えの持つところの思想のぶつかり合いでもあったのだという。すなわち、輪廻転生を解く仏教と、人は死後にあっては祖霊となって鎮まり続けるという神ながらの道とのぶつかり合いであったのだという。
更に佐野先生はせっかくだからとこの仏教伝来の石碑のある初瀬川金谷河川敷から見える景色についてご説明くださった。まずは東方を見遣る。そこにあるのは泊瀬現在は「初瀬と書くのが一般的。以下引用文以外はこれに倣う。三輪山の東方に続く山々である。今は長谷寺の西に聳える山を初瀬山と読んでいるが、かつてはどうも初瀬の地の一帯にある山々を総じて泊瀬(初瀬)山を言っていたらしいのだそうだ。初瀬には「こもりくの」という枕詞が付くが、基本的に枕詞とは地名につく褒め言葉であってこの「こもりくの」も、その大和平野の東端に、盆地から切り離されたように奥まり、まるで母親の胎内のようなその地形を褒め称えたものだという。
そういえば、初瀬は葬送の地でもあった。
こもりくの 泊瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
万葉集 巻三/428
さあて、このあたりからどこまでが佐野先生のお話のことなのか、私の勝手な思いつきなのか分からなくなってくる。注意して読んでいただきたい。
題詞に「土形郎女を泊瀬山に火葬りし時に」とあるから、歌中の「いさよふ雲」はその煙を指すものだと思われる。我が国における火葬は文武4年(700)法相宗の僧道昭が初めてというが、この歌はそれから程ない頃の歌と思われるので、思いのほか、火葬の習慣は早く広がっていたのかもしれない。
それはともかくとして、この初瀬の地が葬送の地であることは「母親の胎内のようなその地形」 に由来するのかもしれない。たとえば山伏がその山に入るのは、濁世の穢れにまみれた我が身を、一旦あの世に見立てた山々に自らを死者と見立て白装束にて駆け回り、その穢を祓い落とした後、新たな魂を持ってしてこの世に再生せんがためのこととされる。
もちろん、このような思想が我が国においてどこまで遡れるか私は知らない。けれども山岳修行の祖、役行者は7世紀の人。万葉集の時代にこの死と再生の循環の思想の萌芽があったんじゃあないか…なんて考えることは、まあ素人考えとしては許されるんじゃないかなあ、なんて思ったりもする。
話は一番初めに戻る。この初瀬川金谷河川敷がなぜ仏教の伝来の地とされるのかという点についてであるが、その理由は、そんなに難しいことではない。
それは欽明天皇の磯城島金刺宮がこの地付近にあったからである。百済の王が使いをし、金銅仏、経論、幡蓋を贈ろうとした相手は欽明天皇である。ならば、それらの贈り物が最終的に落ち着く場所は磯城島金刺宮にほかならない。そしてこの磯城島金刺宮の所在がこの桜井市金谷一帯であったと考えられているからである。
現在、大和平野を東西に貫いている中和幹線が初瀬川を超えるあたりの南岸の日当たりの悪い小さな公園に、磯城島金刺宮であったことを知らせる石碑と案内板が設置してある。ただ、私の記憶によれば、かつてこの石碑はここから200mほど西にある桜井市の上下水道部水道お客様センターの敷地内にあったような気がする。
ただ、最後のもう一つだけ余計なことを加えるとすれば…
それは初瀬川の流路の変遷についてである。その時の資料はもうすでにどこかに行ってしまって、その中身の詳細を確認できずにいるのだが、桜井市の埋蔵文化財センターの方の講演を聴く機会があり、そのお話によれば、初瀬川の流路はどうも今よりは南を流れていたらしい。
それは…今は大きなショッピングセンターが立っている場所。その前は巨大な材木市場であった。材木市場が廃され、ショッピングセンターが開設されることになった。その工事に先立って、大規模な発掘調査がなされた。その調査の中で、どうやらそこがかつて船着き場であったらしいことを示す石組みが発見されたというのだ。川がなければ、船着き場があるわけはないので、そこに船が行き来できるような川が流れていたことになる。とすると、それは初瀬川となってくる。ということは、欽明天皇の宮、磯城島金刺宮の位置の推定に関しては、このことを考慮に入れなければならなくなってくる…なんて言えはすまいかなんて思ったことがあるのだ。
話はだいぶ怪しくなってきた。なかなか初瀬川の岸辺から離れることができないまま、ここまで来たが、次回はいよいよこの岸辺から離れてゆくことになる。