最初に訪ねたのが、初瀬川河川敷のこの石碑の前。
この地では、まず桜井駅前での挨拶に続いて、ここでも坂本先生からの詳しい行程についてのご説明があった。しかしながら、誰にましておぼつかないのは私の記憶、その内容が桜井駅でのものだったのか、この場所のものであったのか、一週間もたった今となっては、それすらも判然としない。さらには、これから数回は、そんな定かではない記憶をたどって、この日のことを振り返ろうと思っている。ただただ、皆さんの「寛容」を期待するのみである。
なお、それぞれの地点での講師の先生のレクチャーについては、記憶している限りのことをなるべく簡潔にお伝えしたいとは思うが、ここまで述べたとおりである。どこまでが先生方の仰ったことで、どこからが私のつまらぬ妄想であるのか…ごちゃまぜになってしまうことがしばしばあるだろうことは想像に難くない。まあ、みなさんが「ふむふむ」と思ったところは講師の先生がお話になったことだろうし、「なんじゃ、そりゃあ」と思ってしまったところは私の考えたところと思って間違いない。
…山辺の道は奈良盆地の東端を縫うように南北に通ずる日本最古といわれる道。いわゆる「奈良盆地断層帯」沿いに形成された道で…
なんてお話を聞きながら、以前の萬葉学会の1日旅行で聞いた話を私は思い出していた。
…ここが私の家のあたり、そして「奈良盆地東縁断層帯」は、このあたりから始まって…
と、その航空写真を指さしながら、その指は段々と南へと下り、三輪の我が家の上で止まり、
…このあたりまで続きます…
と仰った。「奈良盆地東縁断層帯」は、一度その威をふるえばマグニチュード7.4程度にも及ぶ大地震を引き起こしかねない断層であるが、その北端と南端に…と、坂本先生に妙にご縁を感じたことを思い出したのだ。坂本先生の話はさらに続く…
…三輪から景行・崇神両天皇の付近を通過し、布留-高橋-大宅-春日-佐保を経て奈良山に至る。沿道には大神神社・長岳寺・石上神宮・石上寺など著名な寺社が存在する…
…と、一通りのお話をしてくださったあと、現在山辺の道というのは後の世になって、歩きやすいようなところを整備したものであって、元来は今ある場所より低い高度のあたりを通っていたのではないかというお話。その根拠として挙げられたのは、
御陵は、山辺道勾之岡の上に在り
古事記崇神天皇
山辺道上陵に葬りまつる
日本書紀崇神天皇六十八年
御間城天皇を山辺道上陵に葬りまつる
日本書紀垂仁天皇元年十月
ここで出てきた「御陵」、「山辺道上陵」は3つの例で「御間城」とあるのでわかるように崇神天皇の御陵である。その崇神天皇の御陵は現在天理市柳本町にある行灯塚古墳のこと。更にはその南側300mほどのところにある渋谷向山古墳は景行天皇の御陵だとされている。この景行天皇の御陵についても、
御陵は、山辺道の上にあり
古事記景行記天皇
大足彦天皇を倭国の山辺道上陵に葬りまつる
日本書紀成務天皇二年
…いずれも「山辺道の上にあり」とある。今、山辺の道はこの2つの御陵の東、すなわち山側を通過しているが、この記述に従えば山辺の道は2つの御陵の西側、盆地側を通過していたことになる…
…と。この話も以前、萬葉学会の1日旅行でお聞きした話ではあるのだが、今回はその時よりもすんなりと胸に落ちた。そして、その話を聞きながら、私は次のような勝手な考えを思い浮かべていた。
そもそも、山辺の道は、その両端の崇神天皇の宮と、軍事氏族である物部氏の奉斎する石上神宮を結ぶ道であった。その性格上、石上神宮には多量の武器が収められていた。
とするならば、今ある山辺の道のように山沿いでアップダウンの激しい道であったのではちょいと不便だったのではないかと思っていたのだが、坂本先生の仰るところまで山辺の道の標高を下げてみると、道は比較的真っ直ぐに、しかも道の上下はゆるやかになり、疑念は一気に解消する。
まあ、もっと低いところを行けば…すなわち、後の上ツ道・中ツ道・下ツ道のようにまっ平らな場所まで高度を下げれば、もっと移動しやすい道になるのではないのかと考えられないでもない。しかしながら、かつて湖であった大和平野は標高が下がれば下がるほど、大地は湿りがちで、そこをゆく道は雨の日などは通行することが難しかったのではないかと想定される。