大和おいて、殆どの場所で桜はもうその盛りを過ぎた。あとは八重の桜やチラホラと咲き残った山桜が見られるのみである。だから、今更の感がないではないが…
私の職場から車で10分ほどの場所にある本郷の桜である。あるいは、後藤又兵衛が大阪の陣を生き延び、隠遁生活の後に同地で一生を終えたというこの地の伝説により、又兵衛桜とも呼ばれている。なんでも、この桜の咲き誇っているこの場所こそ又兵衛の屋敷跡と伝えられる場所なんだそうな…
…と、こんな話をするためにこの写真をアップしたわけではない。
問題は、この桜を見にゆく道筋にあるものである。
道は国道166号、宇陀市内を南へと走らせる。旧榛原町内を抜け、旧大宇陀町内に入る。そして緩やかな上りと下り、その先には大宇陀の道の駅…というところ、その下りはじめにある信号を西に入る。その先、1kmもゆかないところに上の又兵衛桜は咲いている。
そしてその途中…騎乗にて上り来る朝日に向かう御仁が一人。
ちょいと正面からそのお顔を拝見しよう。
おお、これは柿本人麻呂公ではないか…
そう、ここは「阿騎野人麻呂公園」。場所は、大宇陀体育館の敷地内、平成7年の発掘調査によって発見された中ノ庄遺跡である。詳細については、さして詳しくもない私があれこれ云うよりは、下の写真内にある説明文を読んでもらったほうが正確であろう。
上の柿本人麻呂公の石像は、故中山正實画伯による壁画「阿騎野の朝」を元にしたもの。原画のほうはなんでも宇陀市中央公民館大ホールにあるのだそうだが、まだ見たことはない。
ただ、この絵、私の拙い記憶の中で、いつも目にしていたような記憶があって、ふとどこで見ていたのかを思い出してみた。
そうだ、天理図書館だ。天理図書館の入ってすぐのホールだったか、閲覧室のどこだったかに同じ構図の絵がかかっていたことを思い出した。てなことで、ちょいと調べてみると…その学生時分に講義を拝聴する機会のあった和田萃先生の文章にも、
附属図書館を利用している内に、閲覧室の壁の一画に油絵の小品があって、それが中山画伯「阿騎野の朝」と全く同じ構図であることに気づいた。この油絵が原画で、これをもとに壁「阿騎野の朝」が描かれたと確信している。
万葉古代学年報11号p80~81
とあるのを見つけることが出来た。先生は「これをもとに壁「阿騎野の朝」が描かれたと確信している。」とまで書いていらっしゃるが、まあ壁画と油絵の小品の関係から考えれば至極妥当な「確信」ではあると思う。
ちなみに、この柿本人麻呂公の石像の周辺には、
とか、
というような、再現された古代の建築物が配されている。おそらく、1995年の発掘の成果なのだろうが、上の案内板によれば、掘立て柱式の建物は11棟、竪穴式の建物が3棟が飛鳥時代のものとして発見されているという。
掘立て柱式の建物が11棟とは、結構な数…当時としてはさぞかし壮観であったのだろうと思う。けだし、当時の公の施設であったのだろうと思う。ならば、どのような役割を果たした施設であったのか、興味は尽きない。