妄想の続き…天武天皇吉野を脱出す 

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前回書いたことを、改めて読み返してみると…なんともまあ、支離滅裂で、根も葉もない単なる思いつきを思いつくまま、よくもまあこんなにも書き連ねることができたものだと恥じ入る次第である。ゆえに前回書いたものをすべて削除してあのような文書が皆様のお目につくことがないようにしてしまいたいとも思ったが。待てよ、過ちは過ちとしてそのまま置いておいた方が今後の自分の行動の戒めになるのではないか…と思い削除せずに、残しておこうと思う…なんて殊勝な考えを口にしたその後でなんだが、妄想は妄想を呼んで、さらに膨らんで行く。

なあに、書いたもので口に糊しているような人間ではない。今回も根も葉もない妄想を披瀝してみたいと思う。しっかりと眉に唾を付けてお付き合い願いたい。

「根も葉もない単なる思いつき」を「書き連ね」た前回の書いたものの一部に、壬申の乱に際しての、天武天皇この時は大海人皇子 以下同の吉野脱出経路について記した一節があった。

からす塒屋とや山」は…中略…まことに目立った山容を持った山。そして、その東の麓は、吉野の宮滝のあたりからの道を宇陀へと抜ける峠道が津風呂つぶろ日本書紀には「津振川」 以下同沿いに走る。この道はおそらく壬申の乱の際に天武天皇が吉野を脱出したときの経路だと考えられる。

との部分がそれである。ようは、吉野から宇陀に抜けようとすれば必ず烏の塒屋山の東麓を過ぎなければならないといいたかっただけなのだが、今読み返すとどうも具体性に欠ける。もちろん、壬申の乱は今から1350年も前のことであり、その時の道筋がどうのこうのとは正確なことは分かりようはない。だからうかつにこの道だ…などと断定できるはずもないことではあるが、なあに、ものはついでである。以下、思いついたことを少々披瀝したいと思う。

もちろん、道筋の推定とはいうけれども、さして古道についての知識もない私の場合、どうしても今ある道筋からの推定になる。しかしながら、この地域、1350年の昔から現代に至るまで、大きな地形の変動があったことは聞かない。道の存否は地形的な条件に左右されることは同じである。ならば、古代にあっただろう道も、大筋のところ今ある道に沿って存していたであろうと推測することは、大きな過ちをしでかすことには繋がらないと思う。山間の谷間を抜けるような道しかないこの地域なれば、なおその可能性は高いと思う。

ということで、私が考えた道筋は三つ

【1】
吉野の宮があったと思われる吉野町宮滝から、少し矢治やじの辺りから山越えし、あるいはもうちょっと吉野川を遡り、国栖くずのやや北方の窪垣内くぼがいとのあたりで山越えをして入野しおのにいたり、そこから津風呂川を遡り、烏の塒屋山の東麓を抜け、現在関戸峠と呼ばれている峠道を越えて宇陀に入る道。

【2】
いったんは吉野川を下り、吉野川と津風呂川の合流点から津風呂川沿いを川筋に沿って遡り、入野に至る道。但しこの道は現在ダム湖ができていろ。したがって今ある道は、そのダムの南畔に沿って津風呂川を遡っている。

【3】
現在奈良県道28号線が走る道筋。宮滝から吉野川を下り、津風呂川との合流点もさらに越え、龍門川と吉野川との合流点から山中に入り、途中まで竜門川沿いに遡る。そこから吉野町佐々羅を抜け小島峠を越え、関戸峠にに至る道。

この三つのルートとも烏の塒屋山の東麓を抜け、関戸峠を越える点は同じ。【1】と【2】は入野まで、どの峠を越えるかが異なっているが、入野からは同じである。

但し、このうち【3】のルートは遠回りにすぎるように思う。日本書紀に

の日に、みちちてあづまの國に入りたまふ。事にはかにしておほみまを待たずして行す。

この日、天皇は出発して東国に入られた。事は急であったので乗物もなく、徒歩でお出でになった。

とあるように1350年前の6月24日、天武天皇は乗り物を用意する間もなく慌ただしく吉野を後にしている。急ぐだけの理由があったからなのだが、そんな時に大した理由もなしにそんな大回りをする理由はない。となると、逆にその可能性が高いといえるのが、最短ルートともいえる【1】のルートであるといえよう。

ここは古く日本書紀に見える「津振つぶり」の地である。約千三百年前(六七二年)大海人皇子おおあまのおうじ(天武天皇)と鸕野皇女うののひめみこが吉野離宮(宮瀧)から御峠おとうげを越えて、この地に到り、隊伍を整えて宇陀から伊賀伊勢へと出陣せられた。世に言う「壬申の乱」の出発点に当たる。

とは、吉野の宮から少々吉野川を遡ったところ、矢治の峠を越えたところにある津風呂春日神社の由来書きである。宮瀧から宇陀へはこの道がおそらく最短。確かに天武天皇はここを抜けた可能性が極めて高いとは思う。が、現在の地図上ではその道を裏付けるような形跡は見られない。本当は現場に行って確かめられたらいいんだろうが、そこまでの元気はない。

翻って、「あるいは」として、お示しした窪垣内から入野に抜けるルートは、今はその下をトンネルで通り抜ける国道が通っているが、トンネルがそこに設置されたということは、その両端の道をつなぐ道が、山越えの形でかつて存在していたことを消極的ながらも証明しているのではないか…とも考えられる。事実、このトンネルのやや東には、宇陀側から吉野に向けて山道の名残のような小径が途中までは地図上は確認され、全く通行不可能というわけではないようだ。かつては宇陀から吉野に抜ける入野峠越えとあったとする考え(”かぎろひ”考」 和田萃『万葉古代学年報2013)もあるところから、天武天皇のたどった道筋が、今言うところの入野峠越えであったとする考えも全く考えられないことではない。

また、【2】の考えも私は捨てがたいとは思っている。確かに現在はダムとなってそこを通行することは不可能となってはいるが、それはかつての津風呂側の川筋である。そこは、少なくとも周囲よりはアップダウンの少ない通行路として機能していたことは想定できる。

この時の天武天皇の一行には、後に持統天皇となる皇后の鸕野讚良皇女やまだ幼い草壁皇子・忍壁皇子、さらには女孺十有餘人もいた。あまり急峻な山道は、本来ならば避けたいところである。矢治の峠道は上の地図でもわかるように極めて急峻。だからそのことに配慮すれば自ずとなだらかな【2】の経路が、天武天皇一行の選んだ経路であったと考えることもそれほど不自然ではない。日本書紀に

津振川津風呂川いたりて、車駕おほみま始めて至り、便すなはち乘る。

津振川に至って、はじめて乗馬が届き、これに乗られた

と続いているが、これもまた一山超えて津風呂川畔についたときと理解するよりは、吉野川との合流点についたときに「車駕始至」と理解したほうが、具体的にイメージがわきやすい。「車駕」を吉野において調達したというのならば、それらをわざわざ山越えで送り届けるというのもちょいと首をかしげざるを得ないように思えるのだ。

ただ…吉野では「車駕」を調達できなかったので、従者の誰かが先に山越えをして、宇陀の地で「車駕」を調達し、その経路と津風呂川が接する辺りで天皇の一行に出会った…とも考えられないでもない…

まあ、結局のところどっちがどうなんだか分からなくなってきた。少なくとも、【3】のルートはないなとは思いつつ、今日は終わることにする。ともあれ、天武天皇の一行は無事吉野を脱出し、宇陀の吾城にたどり着いた。

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