さてさて、表題のごとく石上から和爾坂に向かって歩いたその一日から、もうじき2か月たとうとしている。あと数日もすれば年も変わるし、いつまでもそんな前の日のことを書いているわけにはいかない。今日こそ目的地にたどり着きたいと思う。
和爾下神社の次に尋ねたのがここ。
「何だ、この丘は?」などと思うなかれ。この丘はそんじょそこらの丘とは違う。だいたい大和の地にあって…しかも、桜井から天理にかけての山沿いにあって、ある程度形の整った丘を見つけたら、それは古墳である。しかもこの目の前にある古墳はそこいらの古墳とはちょいと格の違う。
東大寺山古墳である。
全長が約140mのこの前方後円墳は4世紀後半ごろのものと思われているが、ここに一つの謎が含まれている。いくつもの鉄刀、鉄剣が発掘されているが、そのうちの一つに
中平□□年五月丙午造作文支刀百練清剛上応星宿□□□□下避不祥
と銘された鉄剣がある。問題はその「中平」という年号。大陸にあった国の年号ということになるが、それは184~189年を指す。この時代はちょうど例の倭国の大乱が終結した時期、2世紀の末である。この中平と銘された鉄剣はこの乱が終結した後、後漢から下されたものであると考えられているが…そうなると、その送り先は誰かという問題になってくる。その送り先は倭国の大乱終結時のその頂点に立つ人物と考えるのが最も自然な思考であろう。となると、その人の名は…ヒ・ミ・コ…ということになる。
ならば、東大寺山古墳こそが女王卑弥呼の墓
…てな具合にはならないんだなあ。卑弥呼が活躍したのは2世紀後半から3世紀中盤。東大寺山古墳の築造が4世紀の後半。時代が合わない。だから、様々に語られる卑弥呼の墓はどこか…といった論議には、東大寺山古墳が卑弥呼の墓だとする考えがとなえられることはない。
この辺りにかつて勢力を持っていた和爾氏の族長のうちの誰かだという考えが一般的である。ただ…それにしては発掘された副葬品が豪華に過ぎるんじゃあないかとも思っている。特に上に示した鉄剣などはなぜこの場所にあったのか…うまく説明会出来ないなあ…てなことを考えながら、この古墳の位置からの下の写真を見た時、やはりこの墓の主は一氏族にすぎない和爾氏の誰かではなく、この山と平野に君臨した誰かという思いにとらわれてしまう。
私の写真の構図のまずさで十分には伝わらないが、眼下には大和平野が雄大に広がる。これを見下ろす位置に永遠の眠りを続ける、この墓の主はやはり…との思いにとらわれてしまうことは私には抑えることのできない。
さて、いつまでもこの場所にとどまるわけにはいかない。予定の時間はもうだいぶ過ぎている。このままでは最終目的地に着いた時には日が暮れてしまう。
というわけで次の目的地に向か。
和珥坂だ。
おや…これまでこの地名は和爾と書いてきてはいなかったか?なんてお思いの方もいらっしゃるかと思う。その通りである。だいたい、今回の一連の文章には「石上から和爾坂へ」とあるではないか。
実は「わに」は古代の文献では「和珥」「和邇」「丸邇」と表記するのが普通で、「和爾」は現在の地名としての表記である。途中に立ち寄った和爾下神社もこの表記を用いている。
ということで、この一連の文章では現在用いられているこの表記に従ったが、以下はこの和珥坂に関わる古代の文献もあることから、その中にある表記に従って、この坂の説明に関してのみこの字面を用いようと思う。
和爾町は虚空蔵山の西に延びる丘陵地の斜面に開けており、集落は北東に向かい次第に高度を上げる。したがって町中の道はそのすべてがなだらかな写真のように坂道となる。繰り返すが何の変哲もない道である。
けれども・・・時を千数百年遡ったとき、この坂道は一つの物語の舞台となるのである。
それは第10代崇神天皇の10年のことである。天皇は群れ為す諸臣にいう。
国家を導く大本は教化にある。けれども遠き国々の民にはまだ教化が進まずまつろわぬものが多い。お前たちの中からふさわしいものを選び四方に遣わし、私の法を知らしめよ。
と。そして同年九月、北陸には大彦命、東海には武淳川別命、西海には吉備津彦命、丹波には丹波道主命(四道将軍)を派遣することに決定した。そして天皇はさらに彼等に詔して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」といわれた。それぞれ印綬に授け、これを将軍とした。詔に従い大彦命は北陸への旅の緒に就いた。大彦命は磯城瑞籬宮 (現桜井市)を発ち、山辺の道を北上した。布留を過ぎて和珥(和爾)の坂に到ったときのことである。
童女有り、歌して曰はく、御間城入彦はや 己が命を 弑せむと 窃まく知らに 姫遊びすも 是に、大彦命異しびて童女に問ひ曰はく「汝が言ひつることは何の辭ぞ。」。對へて曰はく「言はず、唯だ歌ひつるのみ。」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひ、忽ちに見えずなりぬ。
不思議な少女が一人歌っていた。
御間城入彦はや 己が命を 弑せむと 窃まく知らに 姫遊びすも 御間城入彦(崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、時をうかがっていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。
と。そこで大彦命はこれを怪しみ少女に問う。「お前が言っていることは何のことか」と。少女は答えて言う。「言っているのではなく、ただ歌っているのです」と。そして繰り返し先の歌を歌い、忽然と姿を消した。日本書紀崇神天皇10年
大彦命が少女と出会った場所は、古事記には山代(山城)の幣羅坂となっているが、日本書紀では上に示したとおり和珥坂となっている。何とも奇妙な少女ではあるが、不審に思った大彦命はすぐさま磯城瑞籬宮に取って返し、崇神天皇にこのことを報告する。天皇は倭迹迹日百襲媛命に占わせる。童女の歌は武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を告げるものと判明した。天皇は残った諸将を集め、これに備える。はたして謀反が起こる。武埴安彦は山背より、妻吾田媛は大阪より大和に攻め込もうとした。天皇は吉備津彦命を派遣し吾田媛を討たせる。大彦命は副将彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命が討ってこれを鎮圧したという。その後北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定して同天皇11年4月己卯(28日)に帰命した。
さてこの物語、伝承上の物語であると言ってしまえばそれまでであるが、あながちお話の世界のものであるとは断言できないものがある。登場人物注のメインになる大彦命であるがとある考古学上の発見により実在の人物である可能性が強まってきたからだ。1983年に埼玉県稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣の存在がそれだ。この剣には
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、名はタカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
との銘が確認されたが、そこには「意富比垝」と刻まれている。おそらくはこの墓の主である「乎獲居」の遠祖であるというのだ。無論、この事実が史学上の事実をそのまま反映するとは思えないが、考古学上の成果と、古事記や日本書紀の記述がこうやって微妙にリンクするのは、なにやら妄想がかき立てられてすこぶる愉快である。ちなみに銘文中の「獲加多支鹵大王」は古事記、日本書紀に登場する大泊瀬幼武尊すなわち雄略天皇である。
・・・なんてことを妄想しながら歩いていると、和爾の混み合った町中にご覧のようなかわいらしいお宮が見えてきた。
和爾坐赤坂比古神社である。創祀年代は不詳。和爾氏の氏神として成立し、延喜式にある和尓坐赤坂比古神社に比定されている古社である。神亀元年(724)以前から神戸が与えられたという添上郡屈指の大社であるが、今はご覧の通りである。
ということで、ここで解散式。ここは、講師陣を代表して坂本先生のご挨拶。それと…今回は講師としてはそのお話を聞くことはできなかったのであるが、お二人の若い研究者がご参加になっていた。奇しくもそのお二人の苗字はご一緒。片方は、今年東京の方に大学に移られた上野先生の後になら大学においでになられた先生である。
その後一同は散り散りになってゆく。もうちょっと足を延ばして本来の解散予定地まで行ってバスに乗ろうとする方。国道まで出てバスに乗ろうとする方、そして最寄り駅である櫟本の駅を目指す方…私は、櫟本の駅を目指した。