石上寺を出た後の我らの目指す先は山邊御縣坐神社。もう12時も回ろうかという時刻、そろそろお腹もすいてきたが、昼食の予定場所はまだまださき。予定を変更して、早めに昼食としてはくれないかと期待しながら歩きはじめる。
天理の町の北側を東西に延びる親里大路はすっかりと秋の色だ。天理の町は町の中心たる親里大路のイチョウ並木が最近有名になってきたが、どっこい、この北大路のナンキンハゼの並木もなかなか見事なものである。
そして私たちはこのナンキンハゼの並木の下を西へと向かう。上の写真を撮った場所から1㎞弱ほどで北に折れる。天理教の教祖の墓地を右手に見て、もう少しだけ北に上り、そこで西に少し折れる。
自分では天理の町に結構詳しいほうだと思っていたが、そんな私がこんなところがあったのかと思うほどの道である。前を行くお二人はおそらく、坂本先生とピーターマクミランかと思う。
山邊御縣坐神社に着いた。こちらの説明は、先ほどの石上寺に続き、伊勢皇学館の大島先生。「大和志」には、
山邊御縣坐神社 在西井戸堂村
「大和志料」には、
山邊御縣坐神社 丹波市町大字別所縣谷に存り 或云フ、二階堂村大字井戸堂ニアリト。拠ナシト
とある。なんでも、その所在地についてこのように異論がある神社を「論社」というのだそうだが、不勉強な私は今回の大島先生のお話で初めてそのことを知った。恥じ入るばかりである。この神社の資料としては正倉院文書にある「大倭国正税帳」の天平2年(730)に
山辺御県神戸 稲二六二束□把半 租十束 合二七二束□把半 …
とあるのが初見だそうで、その歴史の深さがうかがわれる。
そういえばわが家の近所には志貴御縣坐神社ってのがあったよな、萬葉学会の1日旅行でも再開第1回目で訪れたはずだ…なんてことを思い出しながら、我が母校の先輩のお話に聞き入っていた。
続いての目的地は、姫丸稲荷神社だ。ここはかつて「石上市神社」の旧社地と言われている場所である。