石上から和爾坂へ(第2回万葉ウオーキング)その2

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<続く>

石上神宮につくなり、柿本人麻呂の歌碑の前で坂本先生のレクチャーは始まった。そのお話が終了したのは20数分後のこと。先生もだいぶ気合が入っていらっしゃったようである。お話が終わった後、本日、この楽しい催しごとのお世話をしていただいている…明日香にある犬養孝万葉記念館の館長でもいらっしゃる…岡本三千代さんのリードでくだんの人麿の一首を朗詠する。むろん、節まわしはかの有名な「犬養節」である。

その後、石上神宮拝殿前へと一同はおもむき参拝。拝殿前の神庭の一隅に集合し、11時、京都大学の佐野先生より、かの有名な「七支刀」についてのお話をうかがう。

佐野先生のお話は、この宝剣に刻まれた銘文についてが主であったかと記憶する。

(表)泰四年月十六日丙午正陽造百練七支刀□辟百兵宜供供侯王□□□□作

(裏)先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故為倭王旨造伝示

【表】泰和四年五月十六日丙午の正陽、百練の鋼の七支刀を造る 以て百兵を   辟け、宜しく侯 王に供供すべし。□□□□作

【裏】先世以来、未だ此の刀有らず 百済王・世子、聖音に奇生す。故に倭王旨の為に造り、後世に伝示す。

銘文の解読については諸説あるが、当日の資料に示された本文は上のごとし。「泰和」は「晋」の年号「太和」であり、だとすればそれは369年のこと、日本書紀にはこの宝剣を送られたのは372年(神功皇后52年)とあるので、そこに食い違いが生じている。この差異は何に由来するのかと先生のお話は続く。

実は、367年から372年にかけて百済は隣国の高句麗と交戦状態にあり、372年、百済の勝利によってこの戦いは終わる。だとすれば、この宝剣はその戦勝記念として倭王に贈られたのではないかということが考えられるとのこと。では、「泰和四年」と刻まれているのはなぜか…との説明もあったように思うが、忘れっぽい私のこと、残念ながら覚えていない「泰和四年」はこの宝剣が作られた年なのかなあ、なんて私はその時思っていたように記憶する。。実にもったいないことである。

さらに先生は、この宝剣が作られたとする「丙午ひのえうま」という干支にもこだわっていらっしゃった。「丙午」という干支について、まずは我々の間に残る俗信をまず確認なさった上で、実はこの後訪問する予定である東大寺山古墳から出た鉄剣の一振りに残された金象嵌に、やはり「五月丙午造作文刀」とあることに触れ、この「丙午」という干支が刀剣の制作にかかわりのあるものではないかとの考えをお示しになられた。

さらに坂本先生がこの七支刀の復元についても触れられ、その作業がいかに困難なものであったかということをお話になり、一同、今から1600年前の高度な技術に思いをはせた。先生はその際、この復元に関しては桜井市在住の刀匠がかかわったと説明されたが、それは桜井市三輪に刀剣道場を営む人間国宝二代月山貞一氏のこと今、この刀剣道場はご子息の貞利氏が営んでおられる。この時の復元作業は確か私が学生だった時分のこと3年生か4年生の時。NHKがその特集番組を放送し、食い入るようにそれを見ていたことを覚えている。その時は、銘文中に「百練鋼」とあることからさらには七支刀を成分雲石された結果の炭素の量から、七支刀は鍛造されたものであるとの判断で、月山氏はあの「七支」を槌で叩くことによって復元しようとなさっていたかと記憶する。一塊の鉄塊からあのような形状に仕立て上げること、さぞかし難しいだろうなあとその時も思っていた。



【参考】七支刀と百錬鉄

ここからは蛇足になるが、実は七支刀の復元はその後も同じく奈良の刀匠によって試みられている。東吉野村、河内国平氏の担当である。ただし、氏は以前の復元の差異とは異なり、七支刀は鋳造により作られたとし、鋳造による復元を試みている。

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この際の鋳造による復元も非常なる困難を極めたと聞いているが、いずれにせよ1600年も昔に刻まれた文字が現代を生きる私たちが目にすることのできる奇跡に佐野先生は深く感じ入っていらっしゃった。

そのあと刀剣が祭神となっているこの御社は、当然のことながらその得意とされる守護は勝負に関すること。であるからは、皆さんが何かしら勝負に出ようとするときこの御社にお願いするのがよろしいとのお話があった後、佐野先生のレクチャーは終了した。

続いて、拝殿を離れた私たちは重要文化財である楼門を出る。ここからの説明は武庫川女子大の影山先生による。

南北朝時代、1318年(文保2年)の建立の楼門には明治の時代までは鐘がぶら下がっていたらしい。正面上部のる扁額には「萬古猶新」と書かれてあり、なんでも明治の宰相山縣有朋の筆によるものだそうだ。

そして、私たちは、そのすぐ向かいにある石段を登り、出雲健雄いずもたけお神社の前に出る。

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コメント

  1. 根岸冬生 より:

    まだ、日々、万葉集に埋もれて暮らしていますね。
    昨日、八幡平の「北窓三友」という酒を飲みました。

    • 三友亭主人 より:

      根岸さんへ

      >「北窓三友」という酒

      このお酒の存在は、「北窓三友」というブログ名を考えるとき、しばしばお目にかかりました。
      一度お会いしたいとは思っているのですが、なかなか機会がありません。