11月3日、朝の9時を過ぎたころ、私は天理の駅前にいた。
ご覧のように快晴とまではいかないが、今日はちょいと長い距離を歩かねばならぬ私にとってほど良い天気である。
今日は「万葉ウオーキングクラブ」という団体の催す「万葉ウオーキング」とういう催し物に私は参加する。なんでも、今回が2回目だそうで、1回目はこの6月にあって春日の方から祟道天皇八嶋陵まで歩いたらしい。
「らしい」というのは、1回目の時はこの「万葉ウオーキング」という催しがあったことを後から知り、参加していなかったからである。コロナ禍の影響で去年今年と萬葉学会主催の一日旅行お中止になっていたこともあって、このような催しがあると知って参加しないわけがない。あとから知って悔しがっていた次第である。
というわけで私は今、天理駅にいる。集合時間は9時30分。刻限が迫るにつれて人はどんどん増えてゆく。お集まりになっている方々はざっと見渡して、私よりも年上のように思われる方がほとんど。しかしながら、ぽつりぽつりと若いお方の姿も見受けられる。1名ではあるが異国の方の姿もお見受けできる。総勢はなんでも70名を越えたそうである。
さて…時間が来た。複数いらっしゃる講師の先生方を代表して高岡万葉歴史館館長の坂本信幸先生のご挨拶をいただくとともに、本日の行程のご説明を受ける。
天理駅→石上神宮→良因寺跡→山邊御縣神社→石上市神社→在原神社→人麻呂歌塚・和爾下神社→東大寺山古墳→櫟本高塚公園→和爾坐赤阪比古神社→舎人親王王墓伝承地
が資料からうかがわれる行程である。
おや…このコースは…と感じられる方は、我がブログの熱心な愛読者である。
というのは、
石上市神社→在原神社→人麻呂歌塚・和爾下神社→東大寺山古墳→櫟本高塚公園→和爾坐赤阪比古神社→舎人親王王墓伝承地
は今から6~7年前、萬葉学会の1日旅行で歩いたコースであり、
石上神宮→良因寺跡
はその前年の萬葉学会の一日旅行で歩いた場所だからである。講師の先生もその時の先生方と重なりが多い。だから、以下に書き連ねてゆくことはその時に報告済みのことも多いかと思う。しかしながら、同じ場所を場所同じ講師の先生が御説明くださっていない場合も何カ所かあり、細かな点において新たな知見に触れうることも少なくはなかった。
だいいち私のことだから、そんな前のことはすっかり記憶のかなたに行ってしまっているものも多い。よって、前回との重複を恐れず、今回も歩いた順に従って記憶している限りをレポートしてゆくつもりである。
ともあれ、歩き始めねばならぬ。
坂本先生のご挨拶も終わり、天理駅をスタートしたのは10時少し前の事だった。
参加者の上に覆いかぶさるようにしてあるのは、「コフフン」と呼ばれる天理駅前広場の施設である。
天理市内にはなんと1600基にも及ぶ古墳が存在しているが、この「コフフン」は。その古墳をモチーフにした円形建築物にカフェやらコンサート広場やら子供用のトランポリンまで仕込まれた娯楽施設である。なんでも、天理の芸術文化やスポーツ、ものづくりや教え、そして子どもから高齢者までが絆をもって共に暮らしてきた日々の価値を共有し、新たな価値を生み出していこうとのコンセプトで作られたという。
けれども、今日の日程を考えればここでうろうろしてはいられない。
早速私たちは第一の目的地である石上神宮を目指し歩き始めた。
そして石上神宮にたどり着いたのが10時25分。前回と同じく鳥居の手前にある万葉歌碑の前で坂本先生のレクチャーが始まる。
光線の加減で文字が読み取りにくくなっているがそこには
未通女之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
と彫り付けてある。訓読すれば
娘子らが 袖布留山の 端垣の 久しき時ゆ 思ひき我は
柿本人麻呂 萬葉集巻四/501
となる。「乙女たちが袖を振る…その布留山のお社の端垣が古くからあるようにあなたを思っているのですよ…私は…」ぐらいの意味になるのだろうか。
「布留山」は石上神宮の鎮座する山。「端垣」はその石上神宮の聖域…禁足地…を他と区切る垣根。ご存じの通り石上神宮の歴史はきわめて古い。万葉の時代の人々にあってもどうやらそうであったらしい。したがってその端垣もまた古くからそこに存している。自分がいかに以前から相手のことを思っているか、その時間の長さを石上神宮の端垣によって表象しているのである。したがって、この歌の主は相応の年を重ねた人物であるに違いない。となれば、相手の女はピチピチのギャルなんかであるはずもなく、やはり相応の年に達した女性であるということになる。「老いらくの恋」を歌ったのがこの歌である…とするのが、坂本先生のご理解である。むろん、相手の女性は年長けているとはいえ端垣のごとく「みづみづ」しく、いつまでもつややかな美しさを備えた女性であったのだろう。
と、確か前回はこんなお話を聞いたかと記憶するのだが、今回はこのお話の前に、
石上 布留の神杉 神びにし 我やさらさら 恋にあひにける
萬葉集十/1927
石上 布留の神杉 神さぶる 恋をも我は さらにするかも
萬葉集十一/2417
についてお話を始めた。どちらも年をいってからの恋、「老いらくの恋」を歌ったものであるが、これは「布留」という語が「古」と重なってくること、そして石上神宮…布留の社が万葉の人々にとっても「古」くから存していたという事実からくるものだそうで…してみれば「石上 布留」とくればそれはすなわち「老いらくの恋」というようなイメージが万葉の人々にあったのではないか…とのお話をなされた。
そしてまた坂本先生は石上神宮そのものについてもご説明になった。詳細については煩雑なるが故、当日の資料の参考となったと思われる「日本歴史地名大系」あたりの記事を参照していただければと思うが、先生のお話の中で一つの話が心に残った。それは「日本後紀」延暦23年(804)2月の記事についてのお話である。
なんでもその月、桓武天皇が桓武天皇が石上神宮が所蔵していた兵仗を他所に移した時に、何とそのための人員が延べ数で15万7千人余りに及んだのだということ。その後にその蔵が勝手に倒れたり、桓武天皇も病に倒れたりと、怪異が立て続けに起こったので、神宝を元の戻したのだそうな。
特に私が反応したのは下線部。学生時代に、やはり上代文学の教えを受けた西宮一民先生のお話を思い出したのである。
下線部は石上神宮が膨大な武器を所蔵していたことを示しているが、これは石上神宮の祭神が刀剣であるが故のことである。この武器は当然のことながら政権の所蔵する武器である。すなわち石上神宮はヤマト政権における武器たる役目を果たしていた。
とするならば、初期のヤマト政権の王者、崇神天皇の宮が山辺の道の南端にある以上、その武器庫たる石上神宮が山辺の道上に存するのは決して理由のないことではない。古く山辺の道の北端が石上神宮だったことを考慮すれば、山辺の道は初期ヤマト政権において武器の運搬路として機能していたのではないか。さらには、そのために作られた道ではないかという話だ。そのことと表裏するように初期ヤマト政権の王者たちの陵墓…崇神天皇陵、景行天皇陵は山辺の道上に位置している。
ならば、なぜ重要な運搬路を高度の高いうねうねとした道にしたのかという疑問は当然想定される。もっと平坦な位置に直線路を作ればより早く武器庫まで移動できるはずだからだ。
それに対し、古奈良湖の存在を忘れてはならないとされた。古奈良湖とは大和の盆地に降り注いだ水を河内の平野へと流しだす大和川が、なかったか、あるいは狭窄で十分な水量を排出できなかった頃に大和盆地にあった湖である。
https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/press/2016/pdf/2syou.pdf
むろん、そんな湖が存したのはヤマト政権の時代からはかなり遡らねばならなかった頃のことだとは思う。しかしながらかつて湖底であったということは土地の水はけの悪さを想起させる。雨が降ればそこにある道はぬかるみたちまち道としての役割を果たさなくなってしまう。とすれば少々迂回してでも、少々高低があるとしてもいつでも非常時には備えられるようにしてかなければならないではないか。
どこまで正確な記憶であるか保証はない。
けれども、私は坂本先生のお話を聞きながら40年も前のとある講義の中で、西宮先生が余談として話されたことを思い出していた。
コメント
相変わらず、若い。
僕は数年前に背骨を折ってから、10分が限界。歩くの。
10分歩いて、1分休み。
とてもこの手のウォーキングにはついていけなくなりました。
根岸山へ
>相変わらず、若い。
いやあ、そんなことはありませんよ。
その日の晩は腰やら膝がガクガクで、次の日の仕事をどうしようかと思ったほどです。
それよりもすごいのは他の参加者の皆さんで、中には朝岡山から出てきて、この会が終わってから岡山に帰ると言っていたご婦人。何でも今年80歳だとか…
それとおんなじ御年齢とお見受けする方々も少なくありませんでしたから…我々の世代の弱さを感じてしまいます。
gatayanさん、こんにちは。
天理駅前にそんなイベント広場ができてるなんて。
ただもうだだっ広い感じの駅前風景だった気がしますが、
イベント広場があるといい感じですね。
70名のウォーキングは壮大ですね。
外国人の方もいるのがすごい。
どこで、どうやって情報を得たのでしょうか。
只野さんへ
>ただもうだだっ広い感じの駅前風景
この数年で大変わりしましたよ。
何年も通った駅なんですが、ほんとうに「ここどこ」って感じです。
ただ…イベントとはいっても、いくつもの施設がまとまって広場を占拠したために、かえって大規模なイベントはしにくくなったようにも思います。
>どこで、どうやって情報を得たのでしょうか
異国の方と言っても日本在住の方で、日本語の達者な方でした。というよりは、下手な日本人よりも日本語をよく知っていらっしゃる方でテレビにもよく出ている方のようです。
講師の先生方、何人かと面識もあったようで、その筋の方から情報を得たのだと思います。
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