今週も「鳥見霊畤」ついて。前回は
さあて正解は…そもそも正解なんてあるのか、それは次回のお楽しみ…
なんて感じで終っていたが、この件について考えるにあたっていろいろと調べてみた。いくつか参考になるような資料にもあたることができた。順次紹介しつつ、最後にでも自分なりの考えをお示し出来たらなあとは思っている。
てなことで今週も多分終わりにはできない。まあ、気を長く持ってお付き合いいただきたい。
まずはじめに早川芳枝氏「『建国の聖地』比定運動に見る統合と分裂ー鳥見霊畤の顕彰運動を一例に」(東洋大学『東洋通信』2013 p18~p25)から、私の興味ある部分を中心にご鍾愛しよう。
なお、氏の論文中の引用文は新字体に統一されているが、引用元は旧字体である場合が多い。本稿(何か学術論文ぽいが、そんなに大したものではない)にあっては、一応当たれる限り引用元には当たっているが、氏の論文中の表記に従うことにする。ただし、氏が論文中に引用されなかった部分を引用する際には、できる限り引用元の表記に従うこととする。また、氏の引用には明らかに誤りと思われる部分もあったが、訂正せず、すぐ横に正しいものを提示した。また私が補足の形で別途引用した部分にあってはその由を注記した。
時は1906年、3月27日のこと。宇陀郡榛原町有志からとある請願があって、その請願に関わって帝国議会貴族院において審議がなされた。
大和国宇陀郡榛原町大字萩原字天ノ森ノ地ハ往昔天武天皇ノ霊畤ヲ立テサセラレ皇祖天神ヲ祭リ以て大考申へサセ給ヒシ…
とし、そのような神聖な地が耕地などになってゆくことを、我が国の国体上重大な問題であるとして、
適當ナル方法ニ依リ此ノ靈域ヲ顯彰セラレタシ
との請願である。これに対し貴族院は
貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候
との議決を下している。「鳥見霊畤」榛原説に国家がお墨付きを与えたのである。しかしながらそれでは「鳥見霊畤」桜井外山説をとる人々が黙ってはいない。1909年、彼らは大塚卯三郎を中心として上記の貴族院の議決に対し
併シソレハ此鳥見山ニアルト云フコトガ確カデアラウカラ此所ヲドチラデアラウト云フコトヲ調査シテ、サウシテ之ヲ保存顕彰ノ途ヲ講ゼラレタイ
との請願を帝国衆議院に提出し、学術調査の必要性を訴えた。そして、担当の委員の中でこの辺りについて最も詳しいと目された藤沢代議士の言として「学者間ニ於テ議論ノアルト云フ発議」があり、
之ハ調査スルノ価値アルコトヲ認メテ採択スルコトニ決シマシタ
1909年3月13日 衆議院委員長報告
との議決を得る。こうして、「鳥見霊畤」の位置の比定について、学術的な調査が入ることが決定した。
しかしながら調査とその報告が行われたのは1940年というから、30年後のことである。その間、奈良県は「大和に於ける神武天皇聖蹟」(1916年4月)を発行。桜井と宇陀の両論併記の形で、どちら側の軍配も上げてはいない。同年12月、菊井惣哲「鳥見霊畤旧説伝説記」発行し、「トミ」についてのあらゆる古文献を網羅的に掲載したうえで鳥見山榛原説を唱える。
さらに氏は続ける。「さて、この宇陀と桜井の比定争いに他の候補地がてをこまねいていたわけではない。」とし、
神武天皇の金鵄伝承はナガスネヒコ本拠地の当村であるべき。ならば霊畤は当村に置かれたはず。
とする1914年の生駒郡北倭村の金鵄会による「金鵄発祥史蹟考」や、「鳥見霊畤」は丹生川上の山上にあったとする1929年の春日大社禰宜森口奈良吉による「鳥見霊畤考・吉野離宮考」を紹介する。
さらに1939年、いよいよ「鳥見霊畤」現地調査は始まるが、これに応じるようにして以下の候補地も名乗りを上げる。
南生駒村 「鳥見霊畤趾考証」(1939年4月)
富雄村 矢追隆家「金鵄の黎明」(1939年2月)
北倭村 「金鵄発祥史蹟考」第6版を発行(1939年6月)
また、いよいよ調査の開始が近づくにつれ、言い出しっぺの榛原と桜井だって黙ってはいられなくなる。
桜井 「栄光の鳥見」村井良一磯城鳥見山霊畤顕彰会(1939年6月)
榛原 「鳥見山中霊畤阯に関する研究」榛原町役場鳥見霊畤顕彰会(1939年8月)
まさに乱立状態といった状況が呈されるに至ったといってよいであろう。さあて、調査の結果はいかに…次回に続く