「鳥見霊畤」の所在について…なんてことを考えてみたいと思う。
むろん、そんなにちゃんとした考えが在るわけではない。萬葉集に歌われる「跡見」という地名の所在について考えていたら、なんとなくこの「鳥見霊畤」の所在にまで考えなければならないような気がしてきたのである。いってみれば、成り行きである。問題の一文は次のごとくである。
乃立霊畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉
乃ち鳥見山中に靈畤を立つ 其の地を號づけて上つ小野の榛原 下つ小野の榛原と曰ふ
日本書紀 神武天皇4年
ここに出てくる「鳥見霊畤」において行われた祭りは、のちの大嘗祭の始まりともいわれている。これに比定されている地は、奈良県桜井市外山にある鳥見山と、同じく桜井市の隣、宇陀市に聳える鳥見山の二つである。正確には、この2か所以外にも候補地がないこともないが、まあ、この2か所に絞って考えても大過はないかと思う。
桜井市在住の私としては外山の鳥見山こそ、とは思いたいのだが、我が職場は宇陀市にあり、宇陀の鳥見山を望む職場で私は働いている。
だから、こちらの鳥見山にも義理立てしなければならない。しかも、こちらの鳥見山の頂上付近は公園として整備されており、我が家の子供たちが「御幼少の砌」大変お世話になった場所でもある。あだやおろそかには扱えない。
さあて、どちらの鳥見山が「烏見霊畤」なのであろうか。はじめに日本古典大系「日本書紀」の頭注の説くところを見てみたい。
まず、頭注は鳥見山について
今、桜井市外山にある鳥見山。天武八年八月条に迹見駅家、三代格、元慶五年十月十六日官符に宗像神社が大和国城上郡登美山にありというなど、古くからトミの名が伝えられる。
とし、「上つ小野の榛原」「下つ小野の榛原」については、
いま上述の鳥見山のあたりにこの地名を伝えない。なお、この名によって、宇陀郡榛原町を鳥見山中に擬する説が江戸時代以来行われるが、その地は外山から十キロ余もあり、古くからトミの名も伝えていないから、適当ではあるまい。一方、本居宣長は鳥見山は外山をさすが、鳥見という名の地域は広く、そこで萩原(榛原)のあたりまでも鳥見山中と言ったのではないかとしている。
と説く。
古典大系の注者は、「鳥見霊畤」はあくまでも外山の鳥見山であるとする。その根拠は、「日本書紀」「類聚三代格」などにこの地名が記されていること。つまり、当地が古くから「トミ」と呼ばれていたことである。そして、宇陀市の鳥見山であると考える説は、「外山から十キロ余もあ」ること、「古くからトミの名も伝えていない」ことを根拠に否定する。
しかしながらここでちょいと「?」となるのは、一方ではその地が古くから「トミ」と言われていたかいないかを根拠としながら、もう一方では「上つ小野の榛原」「下つ小野の榛原」という地名のあるなしには目をつぶっているからだ。ちょいとひねくれたもの言いをすれば、確かにこっちは古くから「トミ」とは呼ばれていた場所はないけど、そっちだって「榛原」と言われていた場所がないじゃないか…なんていいたくなる。
だから、そのあたりのちょいとやましさを感じたからこそ宣長先生の折衷的な案を紹介したのではないか…なんて勘ぐってしまう。宣長先生曰く、
榛原は、今ノ世に萩原と云驛ある是なりと云り。さもあるべし。此村長谷の東方にて、今は宇陀ノ郡に入て、彼ノ外山村とはやゝ遠けれども、古ヘ登美といひしは、廣き名と聞ゆれば、彼ノ驛のあたりまでかけて鳥見ノ山中と云むこと、違ふに非じ。
古事記伝十八之巻
これがたぶん古典大系の注者のいう宣長先生のお言葉なのだろうと思う。古事記の方には「鳥見霊畤」なんて言葉は出てこない。これは古事記に出てくる「登美能那賀須泥毘古」についての説明の箇所である。「登美能那賀須泥毘古」は「日本書紀」に出てくる「長髄彦」のこと。神武天皇が大和盆地に進入する際に最大の障害となった存在。「登美」は地名ということになるが、その際に宣長先生は、その地名に対する考察を行ったというわけである。
「トミ」という地名は確かに桜井市の外山のあたりであろう。しかし、その「トミ」は外山村周辺に限定するのではなく、東の方にもう少し広く考えるべきであろう。そうなると「トミ」の山中というのは宇陀の鳥見山でもよく、その麓を「上つ小野の榛原」「下つ小野の榛原」と呼んでも差し支えない。
と宣長先生は理解したのだろうと思う。
宇陀の鳥見山の麓に「上つ小野の榛原」「下つ小野の榛原」はあっても「トミ」がないこと、桜井の外山の鳥見山はその周辺を古くから「トミ」とは言ってきたが、周辺に「上つ小野の榛原」「下つ小野の榛原」という地名が見当たらないことと考え合わせた時に、その条件を満たすところで考えれば、確かに宣長先生の考えるところが一番矛盾が少ないのかもしれない。おまけにこう考えれば、萬葉集の、
大伴坂上郎女、跡見の田庄にして作る歌二首
吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ
萬葉集巻八・1561
とも矛盾しなくなる。つまり、「トビ」と範囲を外山村から宇陀市との境界地点までに広げることにより、宇陀市との境界地点にある吉隠が「跡見の田庄」にあることになるのだ。
さあて正解は…そもそも正解なんてあるのか、それは次回のお楽しみ…
コメント
榛原は萩原と同じという宣長先生の説に同意します。薬師町から外山にかけては萩原姓のお宅がけっこうある印象です。
ところで、タイトルを烏見なのは、何か理由がありますか?
>舟津先生
ありゃあ「烏」になっちゃってますね。見れば記事の中にもちらほらと。
何でこうなっちゃったかわかりませんが全く意図はありません。「鳥」と読み替えてください。帰宅したら訂正をしておきます。お教えいただきありがとうございます。
外山周辺に萩原姓の多いこと、以降の考察に参考になります。ちなみに宇陀の鳥見山を含めて宇陀の市立病院のあたりまでの字名も萩原です。このあたりも次回以降考えてみます。
[…] 先ほど紹介した画面右前方の鳥見山と、どちらが神武天皇の聖蹟、「鳥見山中霊畤とみのやまのなかのま つりのには」であるかをあらそった山である。このことについても。以前かなりくどくどしく書いたので、そのはじめの記事だけここで紹介しておく。 鳥見霊畤の所在について その1「鳥見とみの霊畤まつりのには」の所在について…なんてことを考えてみたいと思う。むろん、そんなにちゃんとした考えが在るわけではない。萬葉集に歌われる「跡見とみ」という地名の所在について考えていたら、なんとなくこの「鳥見霊畤」の所在にまで考えなwww.sanpendo.com 結構、その経緯が面白かったのでしつこく書いた記憶があるが…最終的には手前右側の鳥見山に話は落ち着いたように記憶している。 […]