萬葉の桜井 跡見あれこれ

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跡見とみ」についてもう少し書いてみたいと思う。

前回「萬葉と桜井」というくくりの中で、萬葉集に現れる「跡見」という地名について書いた。

跡見とみ 紀朝臣鹿人きのあそみかひとの、跡見茂岡しげをかの松の樹の歌一首 茂岡に 神かむさび立ちて 栄たる 千…
「萬葉と桜井」と言うくくりの記事は、ある意味で桜井市内にある萬葉集の故地のガイド的なものを目指しており、僭越ながら、我が桜井市を訪れる方々の参考になればあまり期待できないことを期待してと思いつつ書いているものだから、あまり深入りした言及は避けている。その関係で前回も、「跡見」という萬葉集に詠まれた地名について、大まかに言えば二つの考えがあると言うことを紹介しただけで。所謂両論併記という形を取った。

単にこんな考えが在りますよ…と二つの説を紹介するのみで、自分がどう思っているか詳しく言及をすることはなかった。けれども、この「跡見」という地名について、私も少々疑問に思っているところがあり、今回はその点について能う限り掘り下げてみたい。

まずは前回お伝えしたところをちょいとご紹介。

  1. 現在の桜井市外山とび「とみ」の転訛と考えられるにある鳥見山標高245mの北麓付近、あるいはそこからの東方の宇陀市榛原との境の西峠にかけての、初瀬川・吉隠よなばり川流域。
  2. 吉隱の東、宇陀市と桜井市の市境にあるにある鳥見山(標高723m)の麓の地。

1説について、まずは吉田東伍「大日本地名辞書」の説明を読んでみよう。

迹見トミ 今外山トビに作る、城島村に属し忍坂の西に接す、等彌神社あり…中略

日本書紀、天武白鳳八年、自泊瀬遷宮之日、看群郷儲細馬、於迹見駅道頭、皆令馳走。

外山は今初瀬桜井間の小村なれど、古は忍坂路の要駅にして忍坂山を一に鳥見山と曰へるに似たり、神武紀「立霊畤於鳥見山」とある故蹟は大和志宇陀郡萩原に在りと為す、萩原は忍坂の東一里に当る、再考するに類聚三代格登美山に宗像神社在り、然らば烏見霊畤も此地にして、萩原には非じ…下略

なお、諸註釈を見るに「跡見」を単に桜井市外山のあたりとか、その鳥見山の北麓周辺としているものも見られるが萬葉集巻八に

大伴坂上郎女、跡見の田庄にして作る歌二首

吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ

萬葉集巻八・1561

とあることから、「跡見」の域内には「吉隠の 猪養の山」がなければならずあるいは近接していなければならず、そこで「あるいはそこからの東方の宇陀市榛原との境の西峠にかけての、初瀬川・吉隠川流域」という注釈が付け加わることになる。

以上の如く見てくると、一見「跡見」という地名の比定に関して、1説以外に考える必要は特にないように思えるが、実はこの考えに疑義を差し挟まなければならない事由が一つある。それは・・・大日本地名辞書の「烏見霊畤も此地にして、萩原には非じ」という記述にかかわる。その一文を次に掲げる。

乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉

乃ち鳥見山中にまつりのにはを立つ 其の地をづけて上つ小野の榛原はりはら 下つ小野の榛原と曰ふ

日本書紀 神武天皇4年

神武天皇が大和を平定して4年目のこと、治世の安定を感謝して「皇祖天神」を祭ったというのだ。世にこれを大嘗祭の始まりという。

問題は「靈畤を立つ」に続く一文。この一文によれば鳥見山のふもとに「(上つ小野の)榛原 (下つ小野の)榛原」という地名がなければならない。しかるに、これまで述べ来たった外山の鳥見山周辺にはその地名の痕跡が一切見当たらないのだ。そこで着目されたのがB説の桜井市・宇陀市にまたがる鳥見山の存在である。ここならばその麓一帯は、現在も榛原と呼ばれているし、「吉隠の 猪養の山」に隣接している。江戸時代享保年間の地理書「大和志」の「墨坂」の項に次のようにある。

小野ノ榛原 萩原村 神武天皇四年乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原用祭皇祖天神

墨坂は神武天皇の兄磯城攻略の要地で現在の宇陀市にある西峠、そのあたりを「小野ノ榛原」というのだ。

1914年奈良県教育委員会編の「大和志料」には件の「神武紀」機序を引用した上で、

舊説ニ上小野榛原ハ今ノ西峠ニシテ下小野榛原ハ榛原村ナリ

としている。B説はこのあたりの理解を淵源としているらしい。

このようにみてくると気になってくるのが「靈畤」が「立」てられたのが、どちらの鳥見山なのか…ということである。前回の記事では榛原駅前に立てられている石標をお見せしたが、例えば宇陀市の鳥見山の頂付近には公園として整備されており、そこには鳥見神社 が鎮座し、境内にはやはり「靈畤」跡であることを示す石標が建てられている。外山の鳥見山も然りで、その西麓に鎮座する等彌神社の境内には「鳥見山霊畤」の石碑が立ち、その背後の鳥見山中には「鳥見山霊畤」の顕彰碑も建てられている。互いに相譲らず…といった様相を呈している。

【次回か次々回か次々次回に続く】

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     続きを楽しみに致します。
     本文中にお書きになっていた大和志は、昨日私のブログで触れた庁中漫録の一部ですよね。
     タイミングにご縁を感じます。

    • 三友亭主人 より:

      偶然ですねえ(笑)
      調べと考えをまとめるのに時間がかかり、先週はアップすることができませんでした。
      だから、次も「次回 次々回…」なんて書き方をしました。

      ところで、「大和志」ですが、注釈書を見ているとしばしば出てくる書物ですが、学生の頃は実際にあたるような機会はありませんでしたので、あまりその素性まで調べようとしたことはありませんでした。ブログを書き始めてから、ちょくちょく引用する機会が出てきましたのでどんな本かなと調べるようになりました。私の知るところでは『日本輿地通志畿内部』の一部ということなんですが…?
       『和州志』というのは聞いたことがあるんですが、『庁中漫録』というのは初めて聞く書名です。ちょいと興味深いですね。

      • 玉村の源さん より:

         あやっ! 大変に失礼しました。
         三友亭主人さんが参照されたのは「大和志」で、庁中漫録の一部を構成しているのは「和州志」ですね。
         すみません。粗忽で。

         平和な時代には、地誌を含め、様々な研究書的なものが作られたのですね。

        • 三友亭主人 より:

          源さんへ

          >私はこのあたりはまったくあいまいな記憶しかなくって・・・引用する以上、その書物の素性は知っていなきゃって感じで調べて、知ることができました。
          だいたい、「大和志」と「大和志料」はおんなじものだと思ってましたからね。そんでもって後から調べて、「大和志料」が」近代に入って奈良県教育委員会の編纂だとビックリしたぐらいですから・・・