どうも天武天皇はこの地域を少々気にしているようではある。その理由はどこにあるのか…私のようなものが考えたところでろくな考えが浮かぶはずもないが、これからの一週間の宿題として考えてみたいと思う。
こんなことを先週は言っていたが、宿題はまだできていない。できそうにも思えない。けれども、ちょっとは考えてみようと思ったためなのだろうか、ふとあることを思い出した。それはもう40年近くも前、1982年の8月のことである。
その夜、私は天理市にあるS君の下宿にいた。S君は同じ萬葉輪講のメンバーで学年も同じ。次の日から萬葉輪講の合宿で越中富山へ出かける予定になっていた。集合は京都駅、0番ホーム。集まらねばならない時刻は結構早く、当時奈良盆地の南の方に下宿していた私にとっては少々厳しい時間だった。だから、少しでも京都に近い天理市に下宿のあるS君の泊めてもらおうという算段だった。それにS君は結構朝が苦手で、次の日の朝に不安を持っていた。だから、それを起こす誰かがいるというのは好都合だったのだ。
二人はテレビを見る…明日は大丈夫なのかという感じながら…
そう…台風が迫っていたのだ。台風10号がである。おまけに9号崩れの低気圧もあった。いわゆる大和川大水害である。
けれども、そこはまだまだ人生経験が不足していた学生時代のことだから、まあ大丈夫さ…なんて妙な楽観を二人は抱き、二人は眠りについた。
翌朝、結構早くに二人は目覚めた。雨上がりの気持ちのいい朝だったと記憶する。大丈夫、雨は上がった…そして2人とも十分に間に合う時間に目が覚めた。もう、準備はできている。2人はカバンを詰め込み自転車に乗った。石上神宮のほど近くにあったS君の下宿から駅までは3㎞弱。しかもなだらかな下りが続いている。
10数分後、2人は駅の案内板の前に立ち尽くしていた。
電車が動いていないのだ。昨晩の雨のせいである。
どうやって京都に行く…?
近鉄奈良からなら京都に向けて電車は動いているらしい。
どうやって奈良へ?
バスがある。
2人はそんな会話をしたように記憶する。豪雨の被害が計り知れないというのに暢気なものである。もっとも、この時点ではこの豪雨の被害の甚大さがまったく伝わっておらず、京都の駅に着いたら、ほかのメンバーもかけることなく全員がそろっていた。萬葉輪講のメンバーがこの豪雨の被害の甚大さを思い知ったのは、合宿が明けて京都駅から奈良へ向かおうとした時だった。近鉄橿原線が大和川にほど近い田原本付近で寸断されたというのだ…
第6回大和川流域委員会の資料であった「大和川の現状」というレポート中の1枚である。複数の川が氾濫しているのがわかる。少々見にくいかなとは思うが、写真左下黄色いテキストでお示ししたのが廣瀬社である。先に述べた近鉄橿原線の寸断につながる堤防の決壊は写真よりも上流であったものだが、仮にその決壊がなかったとしたら、そこで逃げるはずだった水のすべてがこの地域に集中したことも予想される。これを前回もお示しした普段のこの周辺の様子と比べて頂きたい。
豪雨の翌日の惨憺たる状況がよくお分かりになるかと思う。しかしながら…この写真からは、この地域においてなぜ複数の川が氾濫したかの理由がありありとうかがえる。大和の盆地、そして盆地南部・東部に連なる山々に掘り注いだ水は、それぞれの流路を経てこの地にてすべてが合流する。そんな場所が古くから水の制御に苦しんでいたこと、想像するに難くない。社伝に
社地は元水足池という広漠たる沼地であったが、里長廣瀬臣藤時に御神託があり、俄に陸地となり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。
とあるのもそういった記憶の反映なのだろうと思う。となれば…
治水は帝王のなすべき業である。だからこそ壬申の大乱の終え、3年たった天武4年、天皇はその義務を果たすべく廣瀬・龍田の二神を丁重に祀り始めた。
何しろ、ほんのわずかな舎人たちを引き連れて吉野を脱出し、その一月後には近江朝廷を壊滅させた天武天皇である。その権威は以前の天皇たちとは比べ物にならない。「大君は神にしませば」なんていう慣用句が生まれたのも故なしとしない。しかも
大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田居を 都となしつ
大伴御行 萬葉集巻十九・4260
なんて歌が残されたぐらいだ。記録にはない土木工事もいくつか行われていたに違いない。想像をたくましくすれば、天武天皇の廣瀬野行幸はその工事の完成の確認のためのものだったなどとは考えられるかもしれない。廣瀬社の初見である記事には「大忌神を廣瀬の河曲に祭る」とある。どうやら、その社殿のようなものはまだなかったらしい。ただ以降は「河曲に祭る」といった表現は使われていない。
これをどう考えればいいのか。いかに愚案を示してみたい。
天武4年4月、天武天皇は大和盆地の治水の要であるこの地に手を入れ始めた。その守護のためとして大忌神をこの地に祭ったのだろう。手を入れ始めのこととてまだ社殿はまだ用意できていない。けれども、これから数年にわたる治水工事をお守りいただく神がいつまでも社殿なしというわけにはいかない。秋の大忌祭までにはその社殿が完成したのであろう。以降、天武紀は「龍田風神廣瀬大忌神を祭る」という表現で固定される。
そして天武10年10月。天皇は廣瀬野行幸を企てる。天皇自らが御宿りになる行宮もできあがった。百官も打ち揃った。おそらくは完成も近づいた廣瀬野の治水の様子の確認が目的だったのだろう…けれども、天皇はついにお出ましにはならなかった。この月の朔日、日蝕があった。18日には地震もあった。そんなことの影響でもあったのだろうか…
結局、天皇がこの地の土をお踏みになられたのは、3年後のことであった。そして、その頃にはこの地域の治水もおおむね終了していたのだろうと思う。
以上が、前回の記事において宿題としていた課題の答えの一つである。まこと威もって荒唐無稽な妄想である。賢明なる皆様はとうに眉に唾を付けていらっしゃると思うが、まあ廣瀬の地が大和盆地の治水の要である事実は確かではあると思う。そのことにあわせて、天武天皇がこの地を重視しなければならなかったもう一つの原因は次回考えてみたい。
コメント
行宮まで出来上がり準備万端ととのったのに、天武天皇さんは行幸を三年延期されたのですね。よほどの事情があったのでしょう。
いったん決定したことでも、事情によっては変更されるというのはまことに賢明、天武さんならコロナ下でのオリンピックを強行しようなどとはなさらなかったでありましょう。みならうべし、賢者をみならうべし。
薄氷堂さんへ
>よほどの事情
いったい何だったんでしょうねえ、興味が惹かれます。
予定されていた日が1日や18日ということであれば、日蝕や地震のせいだと言えますが、そこはちょいと知りがたい部分でもありますし…あるいは工事の進捗状況がもう一歩だったりでわざわざ出かけるに値しないとの報告が入ったとか…
まあ、すべて憶測にすぎません。
今、オリンピックを強行しようとなさっている方々にも見習っていただきたい判断ですが…かつて、青島幸男が都知事になって「都市博(だったかな?)」を中止したときの言葉が思い出されます。
青島は「中止補償は金で購いがつく。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」。(この判断には必ずしも賛成できる点ばかりではないのですがそれでも多くの部分には賛成しています。)
今は約束なんかがあるわけではありませんが、お国には国民の、都には都民の命と健康を守る義務があるはず。そんでもって他国の方々にも日本初の流行を起こさないという義務もあります。
何が大切なのか…今こそ本気で考えるべき時じゃあないのかと思います(本当はもう遅いのですが)。