ともあれ、ここまで学んだことを1つの形にしなければならないときが来た。
そう、初めての発表である。あてがわれたのは・・・
城國爾 不止將徃來 妻社 妻依來西尼 妻常言長柄
一云 嬬賜爾毛 嬬云長良
万葉集巻九・1679
という短歌。底本は校本萬葉集の底本である寛永版本。底本通りの訓みを分かりやすく漢字かな交じりで表記すれば
紀伊の国に 止まず通はむ 妻もこそ 妻寄り来さね 言ひながら
一に云ふ 妻賜ふにも 妻と言ひながら
となるのだろうか。私が輪講会で発表したのはおおよそ以下の事項についてである。
まず本文の異同。これは一句目「城國爾」の部分の異同。「爾」が「尓」になっている写本や注釈書があるが、これは異体字の関係にあるものと考えてよいもので、本文を底本のテキスト通りに「城國爾」として差し支えない。他、二句目「將」を「将」、「來」を「来」にしているものもあるが、これも同じ。底本に従うことにした。まあ、何でもないといえば何でもない作業ではあるが、このあたりに関して全く知識の無かった当時の私には、これには何かあるに違いないとかなんとか、あれこれ考えこんでしまって、けっこうな時間を費やしてしまった記憶がある。
また、「一云」の部分の「云長柄」を「云長良」としている写本・注釈書がいくつか見られた。どちらも「ながら」と読みうる表記である。だから「どっちでもいいじゃん」と言いたいところだが、そんなわけにはいかない。よくは覚えていないのだが、私が確認しえたことは次のようなこと。
古い写本の方でここを「長柄」とするものが多く、「長良」とするのは類聚古集という写本ぐらいであること。これに対し、近代に入っての注釈書の多くが「長良」としていること。そして、「長良」としている注釈書では、なぜ「長柄」を「長良」と改めたのかの根拠に触れたものがない。
今になって、その「長良」と改めた側の立場に立って理由を推定するならば…本来、一云のここはもともと「長良」であったが、本文の方が「長柄」と記されているためにそちらに引きずられて多くの写本たちが「長柄」としたのではないか…ぐらいの考えがあることを報告するのではないかとは思う。もっとも、写本の系統などを考えて行けばまた別の考えも出てくるのだろうが、あいにく私にはその方面の知識がすっからかんである。下手に触れればやけどをする恐れがあるので、そっち方面には深入りはしないだろうなあ。
本文の異同を考えた後は訓みである。
まずは二句目「妻社」。古くは「つまもこそ」「つまをこそ」と訓まれていたが、江戸時代の注釈書「萬葉童蒙抄」が旧来の訓みに対し
木の國故、木の神爪津姫と神社を被レ祭たると云事を不レ辨、その氣の付かざるより無理注をなせり
とし、
紀伊國は木の國にて、則木の神を被レ祭て其木の神は妻津姫と奉レ稱也・・・木の神を都麻都比賣と奉レ稱事は、神代紀に見えて前に注せり。妻木と云も此所以也。然れば此歌紀伊國は妻と云名の神ますなれば、とことはに通ひて祈らん程に、妻を依こさしめ給へ、妻津姫社へ詣來ん程に妻と云名を負給ふ社からは、妻をよせこさせ給へと云歌也
との理解を示した。
すなわち、この歌が歌われたのは紀伊国であり、紀伊国には「妻と云名の神」がいらっしゃるので、この歌はそれを詠んだものだとしたのである。すなわち「社」を「もり」と訓み、「妻の神の社」と考えるべきだというのである。そして以降の諸註釈はこれに従ったということを私は報告し、私もそうではないかと意見を言ったように思う。
その際には「社」という字を「こそ」訓むのは、神の社の前では「かくあれかし」と願いを立てることから願望を表す助詞「こそ」に繋がるのだと言うこと。そしてこれを「もり」と訓みうるのは窪田空穂の万葉集評釈に「『社』は森で、神霊の宿る所として、森がすなわち社だったのである。」と説明されていることを紹介したかと思う。
とすれば「妻の社」はいずこかという問題が生じるが、これにも諸説ある。これには上に紹介した「萬葉童蒙抄」に現在和歌山市に存する伊太祁曽神社の右脇殿に祀られている都麻都比賣命神社を挙げ、これに従うものも多いが、他にも「萬葉地理研究紀伊篇」が紀伊名所圖會に「妻村にありし森なるべし。妻村は大和街道にて上古御幸道なり」とあるのを重視して、「妻」の地を現在の和歌山県橋本市妻の地の森だとしている。なお同書は海草郡和佐村字關戸に、妻御前社という神社があることも紹介している…てなことを言ったような…言わなかったような。
今ならば、一歩進んでこの歌が大宝元年の紀伊行幸の帰り道に詠まれた可能性が高いであろうことを前提に、歌の配列からみてこの歌はまもなく大和に入らんとする橋本市妻の森説を述べたであろうと思うが、当時はそこまで勉強できてはいなかった。
続いて第四句。「妻依來西尼」の訓みである。この句旧来は「つまよりこさね」と訓まれてきたが、「万葉集略解」が万葉集巻十四・3454に
庭に立つ 麻手小衾 今夜だに 都麻余之許西禰(夫寄しこせね) 麻手小衾
とあるのに従って、「つまよしこせね」と訓み、後の注釈書はこれに従った。多分その時は句末の「ね」は希求の助詞「ね」で、「私に「妻を寄こしてください」の意味である程度の説明をしたかと思うのだが、今ならば武田祐吉「萬葉集全註釈」に
ヨシは、寄せる。四段活用としている。「妹慮豫嗣爾 豫嗣豫利據禰」(日本書紀三)。コセは、希望をあらわす助動詞 。「須臾毛 不通事無 有巨勢濃香毛」(卷二、一一九)の如く使用しているので、コセが未然形であることが知られる。それに、助詞ネが接續して、希望をあらわしている。
あるのを紹介し、もう少し詳しく話をしたであろうと思う。
さらに言えば、「西」の文字。旧来の訓によればこれを「さ」と訓んでいることになり、略解以降の訓によればこれを「せ」と読んでいることになる。それぞれ我々が現在この漢字を「サイ」、「セイ」と音読していることが想起させられるが、略解が示した訓によればこれは「せ」と訓まなければならない。これについては日本古典文学大系「萬葉集」の・・・の補注に詳しいが、ここでは省略。もちろん、これを発表した当時はそんなことまで思いつかなかった。
結句、「妻常言長柄」は訓みに異同はなく、「妻と言ひながら」と理解して差し支えなかろう。「ながら」は「 ~の性質そのままに。」の意で、「妻と言ひながら」で「妻というその名のままに」となる。
続いて、「一云」以下の「嬬賜爾毛」を「嬬賜南」としている注釈書があること、「あること、これを解決しなくてはならない。万葉集中には「一云」とか「或云」の形で、収録された歌の別伝を記載している場合がある。先に挙げた「長良」は別伝でそう書いていたのだろう。ここで問題になってくるのは三文字目の「爾」の文字である。「尓」との異同は上に述べた通り。そのまま訓むとすれば「妻賜ふにも」あるいは「妻給はにも」となる。 これを「略解」と「萬葉集古義」は「爾」を「南」の誤りとして「ツマタマハナモ」と訓み、「妻を賜へと神に祈なり」との理解を示した。以降、近代に入り萬葉集全釈は「爾」のままでこれを「な」と訓み「賜はなむ」とし、萬葉集総釈もこれに従った。
しかしながら誤字の可能性を考えなければならないのは、伝わってきている文字面ではどうしても理解できない場合に限る。この場合、どうしても「爾」のままでは理解できないのだろうか…そのあたりで折衷案的に考えたのが全釈の「爾」のままで「な」と訓む説である。全釈の注者はそのあたりを考えていたのであろうか。
おそらく、この誤字説はこの部分が本文の「妻寄し来せね」の別伝で、同様の意味「妻を賜りたい」と云う意味でなければならず、略解あたりまで行われていた「賜ふにも」の訓ではそうはならないところから、ここは願望の「なも」がほしいところだという判断から来たのだろうと思う。けれども…
…とだいぶ長くなってきた。あと少々というところまできたが、こっから先がちょいと私が言いたいことを言った部分になる。そこのところは次回に回して、今日はここまでにしたい。
コメント
克明に覚えていらっしゃいますね。それだけ印象深かったのでしょうね。
「お笑い種」まで行かずに、次回に続くですね。(^_^)
旧字・新字といった場合の「新字」は、いわゆる正字体(康熙字典体)に対する当用漢字・常用漢字の字体と考えたらどうでしょう。
そうすれば、異体字の関係にある字体のうち、当用漢字・常用漢字の字体は「新字」で、そうでない漢字については、「異体字」で良いように思いますけど。
源さんへ
あの頃のことを思い出そうと、たぶんこんな作業をしただろうなということを今になって追体験をしています。するとけっこういろんなことを思い出されてきます。
けれども、その思い出されたことが本当にそうなのかは自信はありません(笑)。
>旧字・新字といった場合の「新字」は・・・
ありがとうございます。この辺りは、今まで何を基準にして考えていけばいいのか、どっちが「常」でどっちが「異」なのか点で見当がついてない状態でした。